第十一章 幻影

光の粒子、シナプスの断片、微弱な季節の裏切り。あるいはいずれでもなく、闇に還るためのあらゆる手段……ランパトカナル。それは月から来て月へと還る。両手に悲しみが満ちたら、それを月に還してあげるのが、与えられた使命。彼はそう語った。すべての命を抱きしめたい、とも。

彼は大学で社会福祉学を専攻していた。小さな学び舎ではあったが、保育士養成のコースもあったため、ピアノが弾ける教室も設えられていた。彼自身は保育士のコースではなかったが、ピアノを弾くためにその教室へ出入りしていた。

そこで出会ったのが、菊川はるかという同学年の女性だった。保育士として働くのが夢で、しかし彼女は今までピアノに触ったことがなく、実演の授業で苦戦を強いられていた。隣で涼しい顔でクラシックを弾きこなす篠崎隼人を見た彼女が、彼に声をかけたのが始まりだった。

「どうしたらそんな風に弾けるの?」

その問いに、彼は

「毎日弾いてれば、嫌でも上達するよ」

とややつっけんどんに返した。しかしはるかは目を輝かせた。

「すごいよね、すごいよ。今の、なんて曲?」
「……月光」
「きれいだね。私もそういうの弾いてみたい」
「じゃあ、練習すれば」
「うん!」

屈託のない笑顔に彼は気圧されながらも、その日から彼は徐々に彼女の存在が気にかかるようになった。


ある日のアルバイトの帰り、彼は街中の書店に立ち寄った。そこでピアノの練習に使われる「バイエル」を探した。彼にとっては必要ないものだが、はるかに話しかける口実が欲しかったのだ。

次の放課後、ピアノのある教室で「赤とんぼ」を弾くのに悪戦苦闘しているはるかに、彼はそれを手渡した。

「え、何?」
「基礎がないとちゃんと弾けないから」

バイエルを見たはるかは、「わぁ」と感嘆の声をあげた。

「ありがとう!」

花がぱっと咲くような表情で、はるかはそれを受け取った。二人が恋仲になるのに、時間はかからなかった。

はるかも一人暮らしをしていたから、互いの家を行き来することもよくあった。だが、主にはピアノのある教室で、はるかがぎこちなく鍵盤を叩いてそれを隼人が見守っている時間が、何よりも満たされた時間だった。

ある時、アルバイト終わりにスマホを見ると、はるかから「話があります」とラインが入っていた。

はるかが深刻な顔で隼人を自宅アパートで待っていた。しばらく二人とも黙っていたのだが、明らかにはるかの様子がおかしい。

「どうしたの、何かあった?」

すると、はるかは憔悴しきった表情で、

「……失敗、しちゃったみたい」

そう告げた。彼女の両手は自身の下腹部に添えられている。

「まさか」
「ごめん」

はるかはしくしくと泣き出した。彼女が保育士を目指していたのは子どもが好きだったからだが、まさか自分に子どもができるとは、思いもよらなかったのだ。

「どうしよう。どうしたらいい? 隼人」

彼は、何度もまばたきした。そして、泣きじゃくる彼女の肩にそっと触れた。

「失敗なんかじゃないよ」
「えっ」
「はるかと俺の子だろ。産んでくれ。育てよう」

はるかは驚いた様子で隼人を見た。

「でも、私たち、まだ学生だよ」
「なんとかする。俺が退学して就職するとか」
「そんな簡単なことじゃないよ。親にも、なんて言ったら……」
「大丈夫。俺からちゃんと言うから」


当然というべきか、ふたりのそんな甘い見通しは受け入れられるわけがなかった。激怒したはるかの父親が隼人と彼の両親を自宅へ呼び出して、

「民事で訴える。さもなければ示談金を」

そう迫った。彼の両親は、その場では何度も頭を下げて謝ることしかできなかった。その姿を見て、彼は自分のしてしまったことの重大さを痛感した。

彼は、はるかと会うことを一切、禁じられた。そうして深い絶望の底に突き落とされた。ラインなどのSNSもブロックされ、連絡手段を絶たれた彼は、はるかのその後を知ることは叶わなかった。

数週間後、彼のアパートに一通のはがきが届いた。そこには一言、

「流産しました」

とだけ書かれていた。

彼の中で、何かが、弾けた。


それから彼は、街中で幼い子どもや赤ん坊、妊婦を見かけるたび、生まれてこられなかった命に対して心の中でなんども「ごめんなさい」を繰り返すようになった。この言葉はひたすらに彼自身を責めた。だんだんとそれは彼の心に入ったひびを侵食し、「彼自身」となっていった。

泣かないで、泣かないで。出会えなかったのは、あなたが悪いわけじゃない。ましてや運命なんかじゃない。私は月に還って、いつでもあなたを見守っているよ。あなたが悲しいとき、私も悲しい。だったら、その悲しみを集めてみたらどうかしら。きっと、楽しいよ。

月光に照らされたアパートの一室で、彼は柔らかな幻想に飲まれていった。それはまるで、羊水の中にいるかのような感覚だった。もう何も考えなくていい、苦しまなくていい、呼吸すら手放して、どこまでも堕ちてゆけるのだ。

目の前で、光に包まれて幼い女の子が微笑んでいる。赤いワンピースを着て、エナメルの靴と白い靴下を履いて、こちらに手を伸ばしている。

「ごめんね……」
「どうして?」

あどけないだけ、残酷な問いかけだ。

「名前を、つけてあげられなかった」

彼の頬を、涙が伝う。女の子はふわりと微笑む。

彼が腕を伸ばして女の子の手に触れた瞬間、その子は砂のように崩れて消えてしまった。

「あ……」

彼を、赤い月が睨みつけている。

「ごめんなさい……!」

アパートのドアが軋みをあげて開く。夜の闇が彼を包み込む。彼は両手を広げてすべてを受け止める準備をはじめた。すなわち、じきに自分が壊れゆくことをも。彼は月とは対照的に青ざめた顔をして、ゆらりと歩き出した。

意味を持つから言葉は時として刃となる。あらゆる言葉が自分に襲いかかってくる、そんな幻覚に彼は囚われた。その底なしの苦しみから逃れるべく、意味をなさない文字列を彼は頭に留め置いた。

ラ・ン・パ・ト・カ・ナ・ル

そこにはまったく意味はない。意味がないぶん、自由に意味を与えられる。何もなければ全てを手に入れられる、何も知らなければ全てを知ることができるのと同様に。

ラ・ン・パ・ト・カ・ナ・ル

ラ・ン・パ・ト・カ・ナ・ル

少女が歌っている。ランパトカナルのメロディーで。誰も存在できない草原で一人、ランパトカナルを生み出し続けている。あの子はもしかして、ランパトカナル式のスマートフォンを持っていた?  最新式の、誰もが欲しがる美しい造形の。

飛散し続ける悲しみを、集めに行こう。両手にそれが満ちたら、すべて月へ還そう。あの子がちゃんと、眠れるように。

「俺は、どこにもいない……いてはならない!」

その言葉は、誰にも届かない。ただ夜の公園に虚しく吸い込まれてゆく。彼は舗道を歩き続けた、やがて最寄りの駅に着くと、ICカードをタッチして電車に乗り込んだ。ネオンサインを睨みながら、車内のデジタルサイネージに怯えながら、過ぎてゆく夜景の灯りに見とれながら。

その挙動は、越えてはならない一線を越えてしまった人間のそれだった。彼は自分がまるで夢の中で少女に抱きしめられ守られている心地だった。そう、自分自身が幼な子となり「ずっと夢を見て」いるようだった。

「ランパトカナル……」

そう、彼は夢を見ているのだ。覚めても覚めない、優しい夢を。

電車は終電間際だった。酔っ払いや疲れ切ったサラリーマンでいっぱいの車内で、彼は雑音を遮断するためにヘッドフォンをした。そしてかつて恋した人に弾いてあげたクラシック音楽を大音量で聴き始めた。自然と指が動いた。「月光」ならば暗譜している。何度もあの子に弾いてあげたから。喜んでくれたよ、上手ねって。私もいつかそんな風に弾いてみたいって。すごいねって。大好きだよって。

……誰だっけ。

そうだ、あの赤いワンピースの子だ。あの子に弾いてあげたんだ。喜んで、くれたんだ。

みるみる涙が溢れてきた。目的の駅に着いた頃、彼の頬はびしょ濡れだった。とにかく悲しくて仕方がなかった。飽和した悲しみは、すでにかけがえのない彼の一部となっていた。

風は凪いでいた。春靄が空気を支配していた。その日の明け方、彼は実家の玄関前に佇んでいた。新聞を取りに来た母親が彼の姿を視認すると、ぎょっとして腰を抜かした。

「隼人……?」

しかし、彼が呼びかけに直接応えることはなかった。鼻歌を歌いながら、彼は虚空を見つめている。その姿は、異様さだけではなく、一種の神々しささえまとっていた。母親の声を聞いた父親が、すぐに駆けつけてきた。

「お前、どうしたんだ」

するとようやく、彼は潤みきった瞳を両親へ向けた。その口からは、かすれた声で、

「助けて」

とだけ、漏れてきた。

第十二章 共犯 へ続く