すべてなんて、許されなくていい。ただ、ほんのひとしずく、認め合えるものがあれば、それだけで人は生きていけるのだ。時に過ちを犯しながら、傷つきながら、ボロボロになりながらだって、人は前に進める。前を向けなかったら、横を向くなり後ずさりするなりすれば良い。
隼人が「すべての命を抱きしめたい」と話した意味が、ようやくわかった。彼の抱えている悲しみの一端に触れ、僕は改めて思った……彼に、いっとう綺麗な月を見せてあげたい、と。
喫茶店を出ると、僕たちは車に乗ってまた走り出した。隼人にあの月を見てもらうまでは、そう、彼が悲しみを還せるまでは、僕らは、一緒にいるべきなのだ。
「今日は、ほぼ満月だね」
助手席の窓から空を見上げて、隼人が呟く。
「綺麗かい?」
「うん、月はいつだって綺麗だよ」
「そっか」
それから直線の道を、スピードを上げて進んだ。助手席側の窓を少し開けていたので、車内に入ってくる風が気持ちよかった。このままどこまでも、一緒に走っていけたら。そんなことを考えていた。
県境の国道でウィンカーを出して右折すると、視界に、検問する警察官の姿と点滅するサイレンの赤色が入ってきた。僕は軽く舌打ちした。
しかし、アルコールは一滴も飲んでいない。そもそも、僕たちは悪いことなどしていない。ここで引き返す理由はない。そう思い直して車を前進させた。
僕の惑いを見抜いていたとでもいうのだろうか、なぜか検問で呼気検査を求められた。しぶしぶ僕はそれに応じた。こんなこと、さっさと終わってしまえばいい。
検問にあたった警察官が運転手の僕ではなく、助手席の隼人を怪訝そうに覗き込んだ。隼人がじっと俯いていたからだろうか。
「……何か?」
僕がその視線をけん制するように問う。隼人に好奇の目を向けることは、許せなかった。警察官はやや威圧的な口調でこう尋ねてきた。
「そちらの方は、お酒、飲んでますか」
「いいえ。関係ないでしょう」
「運転を代わることもあるかもしれませんしね。念のため、そちらの方も検査します」
半ば強引に、警察官が検査キットを持って助手席側へやってきた。
「はい、息を吐いてください」
「……嫌だ」
「えっ」
僕はハッと隼人の表情を見た。その目はまっすぐ、夜の闇を見つめている。僕はフォローしようと声をかけた。
「隼人?」
「……」
隼人は微動だにしない。その様子を不審に思った警察官が、
「応じないと、罪になりますよ」
と脅すように促してきた。それでも彼は応じない。僕は隼人の腕に触れ、懸命に話しかけた。
「隼人、大丈夫か。具合、悪いのか」
「……」
「隼人!」
隼人は手を合わせて、目をつむり祈るような仕草をした。その態度が気に食わなかったのか、警察官は片眉を跳ね上げた。
「呼気検査拒否罪を適用します」
そんなわかりやすい罪名があるとは知らなかった。そんなことより、僕は隼人を守ることで頭がいっぱいで、冷静な判断ができなくなっていた。やや乱暴に隼人へ伸ばされた警察官の腕を、僕は思わず掴んでしまったのだ。
「公務執行妨害も加わりますよ」
「彼に触るな」
「ふざけるんじゃない」
「それはこっちのセリフだ」
僕は完全に頭に血が上っていた。警察官は警笛を取り出すと、大げさなくらいの音量でそれを鳴らした。とたんに、周囲にいた他の警察官が駆け寄ってくる。
「署までご同行いただきます」
サイレンの音が何重にもだぶって聞こえた。目の前の出来事が、まるで映画でも観ているかのようにスローモーションに見えた。大げさな怒号が飛び交う中で、僕たちはどこまでもふたりだった。一瞬だけ、まるで世界に隼人と僕しかいないような錯覚にすら陥った。
自分が警察官たちに何を喚いたかは覚えていない。ただ、彼を守りたい一心で、無慈悲な彼らに抗い続けた。隼人はいつまでも目をつぶったまま、拒絶をやめようとしなかった。
僕と彼は、そうして引き裂かれた。
第十四章 正義 へ続く