第十四章 正義

僕の願いは叶うことはなかった。彼に、あの山の月を見せてあげることができなかった。彼の悲しみを還すことが、僕にはできなかったのだ。

連行される際、彼はようやくこちらを見た。そして、口角を上げて微笑んだ。僕にはその笑顔の意味が、どうしても解せなかった。

取り調べを受けている間も、僕はずっとそのことを考えていた。

「一緒にいた男性は、何者ですか」

警察官がそう問うのは、彼が身分を証明するものを何も所持していなかったからだろう。

「僕の、大切な人です」
「そういう意味じゃない。どこの誰なのかを訊いています」
「だったら、本人に直接尋ねればいいじゃないですか」

僕がそう吐き捨てると、警察官はあからさまに渋い顔をした。

「……意思疎通が、うまくできないらしいんです。もしかして、マルセイですか?」

警察官の言葉に、僕は思わず両手で顔を覆った。

「そんな表現、しないでください」

マルセイ。それは「精神異常者」を指す警察用語だ。警察という正義をふりかざす人々が、守るべき市民に対してそんな表現を平気で使う。「正義」とは、非常に恣意的な概念だと思う。

けれども、ひるがえって自分はどうだっただろう。医療という大義名分で、彼ら彼女らの自由を奪い、時として尊厳を傷つけ、幻覚・妄想という形の苦悩を抑圧し、否定し、何よりもその「行為」が暴かれるのを恐れて薬漬けにして、なるべく思考させないようにして。そうまでして権威や権力にしがみつき続けていただけではないか。

僕は一体、今まで何をしてきた?

「――聞いてますか!」

警察官の恫喝に僕は力なく首を横に振り、こう返した。

「……僕に、彼を守るなんて資格は、なかったのかもしれません」
「は?」
「とんだ思い上がりでした。罰ならいくらでも受けます。だから、今すぐ彼を解放してください」
「何言ってるんです」
「お願いです。彼は何も悪くない。本当です、僕の身勝手に巻き込んでしまっただけなんです。 意思疎通が難しいとおっしゃいましたね。もしかしたら彼は調子を崩しているのかもしれない。何か訴えていませんでしたか、月がどうとか、ランパトカナルのこととか」
「ちょっと、落ち着いてください」
「お願いです、彼を解放してください、お願いです!」

僕は何度も頭を下げた。必死だった。どんなに無様でも構わなかった。彼から自由を奪い続けていたのは、他でもないこの僕だったのだ。そのことは、どんなに謝っても謝りきれないことだ。傲慢な抑圧者としての僕は、然るべき罰を受けるべきなのだ。裁かれて、糾弾されるべきなのだ。

取調室はエアコンこそ効いているが、それでも冷や汗が額にじわりと浮かぶ。それが頬を伝って、ぽつりと机に滴った。


結局、事実として僕はアルコールを飲んでいなかったので公務執行妨害罪だけに問われたが、僕の職業が医師とわかると、警察官は恫喝をやめた。つくづく、こういう意味で自分の持っている(とされる)権威とやらに嫌気がさす。

僕は険しい顔で腕組みをして、じっと部屋の隅で調書を取る警察官の背中を見つめていた。取り調べにあたった警察官は、僕の保釈の手続きのために席を外していた。どうせ、外から見張られているのだ。この隙になにをしようと無駄なのだ。

取調べには時間の制約があって、それは確か午後十時までだったように記憶している。壁掛け時計がもうすぐその時刻を指そうとしていた。

僕はひたすらに、彼の身を案じていた。どんな目に遭っているのか、考えるだけでつらかった。そもそもこんなプレッシャーやストレスのかかる環境が、彼に害を及ぼさないわけがない。精神疾患に理解があるとは到底思えない警察が、彼にどんな処遇を施すだろうと想像するに恐ろしかった。

しばらくして、警察官が何らかの書類を持って部屋に入ってきた。

「つつじヶ丘記念病院」

警察官の口から、僕の勤務していた病院の名前が出た。僕はぎくりとした。書類は、印刷された病院のホームページの情報だった。

「こちらにお勤めですね」
「もう辞めました」
「『森下芳之』。あなたの名前が、医師の一覧にあります」
「……」
「この病院から、捜索願が出されていることがわかりました。患者が、行方不明になっているそうです」

僕の心拍数が一気に上昇する。

「患者の名前は篠崎隼人、十九歳。今年の二月から、つつじヶ丘記念病院に入院していた

僕は呼吸をなんとか整えようと、深呼吸した。

「一緒にいたあの男性が、その患者ですね。違いますか」
「……だったら、何ですか」

それは、僕の精一杯の抵抗だった。

「何のためにそんなことを」
「わかってもらえないと思います」
「森下さん。調べればわかることをダンマリは、あまり賢い選択ではありませんよ」
「調べる? 何を?」
「ですから、昨日から今日までのあなたの足取り、なぜ連れ去ったか、とにかく何もかもです」

その言葉に、僕は自分の中で、一種の制御が崩壊する感覚に襲われた。

「何がわかるっていうんです」
「えっ」
「あなたがたに、僕と彼の何がわかるっていうんです。僕らの何を知った顔しているんですか……!」

僕はぎゅっと両の拳を膝の上で握りしめた。

僕が未成年者略取誘拐罪に問われることは明白だ。だが、こんな自分を裁いてくれるのなら、どんな罪名でもよかった。ただし、僕と彼が過ごした時間を貶すような言葉は、どうしても認めるわけにはいかなかった。

悔しかった。誰よりも何よりも、無力な自分が悔しかった。僕は、唇を噛み締めてただ打ち震えることしかできなかった。

第十五章 決意 へ続く