仕事帰り、僕はいつものように駅前のピアノを見に行った。そして、先客がいないのを確かめると、ぎこちない手つきで初めてピアノに触れた。鍵盤は、想像以上に重たかった。僕は何度も「ド」と思しき音を右手の人差し指で押さえた。大学生くらいのカップルが、不思議そうな表情を向けて通り過ぎていく。
そういえば、「月光」はどの音から始まるのだろう。僕はそんなことも知らない。彼は今、ピアノに触れているだろうか。月に悲しみを還すことはできたのだろうか。泣いていないだろうか、ちゃんと笑えているだろうか。ご飯は食べられているだろうか、猫舌は相変わらずだろうか。
「……」
ド、ド、ド、ド、ド
「……」
胸に去来する寂しさや虚しさから目を逸らさすまいと、懸命に「ド」を押した。あの日――母親が自殺した日、泣きたくても泣けなかった日のことが鮮やかに思い出されて、その時の弱かった自分に寄り添うために、僕は何度も「ド」を押下した。おのずと涙が込み上げてきた。柔らかな低音は、ずっと抱えてきた傷に光をあてるような作業を優しく導いてくれる気がした。
あふれる涙は筋を描いて、僕の頬を流れた。
ランパトカナルとは、光の粒子、シナプスの断片、微弱な季節の裏切り。あるいはいずれでもなく、闇に還るためのあらゆる手段。そう、つまり生の肯定そのものだったのだと、僕は解釈した。悲しみに満ちた月の光を、鮮やかな花束にして、過去の自分へ捧げてあげたいのだ。
ド、ド、ド、ド、ド、
「違うよ、その音じゃない」
レ、レ、レ、レ、レ、
「違うってば」
ド、ミ、ソ、レ、ファ、ラ、
「人差し指だけじゃ、何にも弾けないじゃない」
「じゃあ、教えてくれよ。僕は楽譜なんて読めないんだから」
ド、シ、ラ、ソ、ファ、ミ、レ、
「手はね、生卵を包み込むような形にして」
「こう?」
「そう、それで鍵盤を叩いてみて」
ド、シ、ラ、ソ、ファ、ミ、レ、ド、
「あ、なんだか、弾きやすくなった気がする」
「そうでしょう」
その透き通った声は、変わらず僕の心を、草原をるると吹き抜ける風のように揺らしてくる。ぽっかりと僕の中に穿たれてしまった暗く深い孤独が、突如として鮮やかに覆された。僕たちは約束なんてひとつもしなかったし、できなかった。それでも、もしも再び僕と彼の人生が交わるようなことがあるのなら、それを「奇跡」と呼ぶことを、どうか許してもらえないだろうか。
「芳之は飲み込みが早いね」
彼に名前を呼ばれて、僕の胸はたまらなく熱くなった。頭はもう真っ白だった。こみあげてくる感情に抗うことは、とてもできなかった。僕は一度深呼吸をしてから、ゆっくりと振り返った。
そこには、カーキ色のブルゾンにジーンズという出で立ちの彼が、確かに佇んでいた。
「隼人」
彼の名を呼ぶ。すると、唇から鍵盤に触れている指先までもがじんじんとしびれるような感覚を僕は味わった。彼は、はにかんだ表情でピアノに近づくと、僕の隣に座った。
「こうやって弾くんだよ」
ベートーヴェンピアノソナタ第14番嬰ハ短調「月光」第一楽章。彼の指先から生み出されるメロディーは、どこか物悲しくて、しかしひたすらに美しかった。僕は彼の隣で、目を閉じて音色に身を任せた。
……「幸せ」を定義することに意味がないのは、そんなことをしても誰も幸せになれないからではないだろうか。幸せとは考えるものでも、作り出すものでもなく、ただ、感じるものなのだ。
僕は今、すぐ隣で彼の体温と鼓動を感じている。彼もまた、僕を背中で感じながらピアノを演奏している。それがもう、僕らにとっての幸せの全てだった。
夜風が強く吹いて、満開の桜をなでる。花びらたちが舞い、僕たちをさらっていく。それは、いつか夢で見た景色にとても似ていた。
甘い弓張り月が静かに、ふたりのこれから進むべき道を照らしていた。
fin.