Strawberry Feels Forever

「ぎんいろ」

ゲリラ豪雨が降るのは、もう毎日のことになってしまった。窓に次々と打ちつける雨粒を、きみはフローリングに座って凝視している。日が落ちてきたのでカーテンを閉めたかったけれど、きみはもうしばらく窓辺にいたい様子だった。僕は原稿用紙に滑らせていた万年筆の手を止めて、やかんでお湯を沸かすことにした。

今度はしゅんしゅんと音を立てる蒸気に興味を持ったらしい。きみはコンロのそばに立って、その規則的な音に耳を傾けている。

ドアポストになにか投函された。水光熱費の請求書かもしれないと思い開けてみると、そこにはポストカードが入っていた。

フルカラー印刷で、しかもケント紙。内容もさることながら、くだらない文言の周知にこんな高級な紙を使っているだけでも嫌気がさした。使用されているフォントは「IC体」と名付けられた、「ヒトの意識のより深層に侵入する」ことを追求して開発されたものという事実は、しかし「フェイク」とされ人々の意識化にそれこそ「侵入」した。

「『私たちは、もう迷わない!』」

僕が忌々しげにポストカードの文言を読み上げると、きみはこちらをチラリと見て、「にびいろ」と呟いた。

やかんが鳴く間隔が加速度を上げて短くなり、甲高い音を鳴らしたとたん、きみは驚いて僕にしがみついた。

「今消すから、大丈夫だよ」

マグカップに入れたセイロンのティーパックに、やかんから直に熱湯を注いだ。それからCDコンポの電源をオンにして、再生ボタンを押下すると、デッキに入れっぱなしにしていたThe Beatlesの「Strawberry Fields Forever」が流れ出した。

彼らの楽曲が今も聴き継がれている理由が、僕の鼓膜にじっとりと沁みる。

アパートのドアがノックされた。約束は今夜のはずだったが、早めに着いたのかもしれない。外はひどい雨なので、僕は来客を招き入れることにした。

錆で軋むドアをゆっくり開くと、そこに期待した客はいなかった。代わりに、というべきなのか迷うところだが、アスファルトの上に一匹の鯖がびたびたと全身を打ちつけながら、丸い瞳をじっとこちらに向けていた。

「雨宿りさせてください」
「どうぞ」

きみはずぶ濡れの鯖を見て、すぐにカラーボックスからバスタオルを持ってきた。鯖は「お気持ちはありがたいですが」と前置きし、こう続けた。

「なにしろ鯖なもんで。水分持っていかれると、それはそれでね」

きみは鯖をひと睨みして、バスタオルをカラーボックスに戻した。それから再び窓辺に座って、窓に打ちつける雨粒を再び見つめはじめた。

「あおいろ」

僕はフローリングの上で澄ましている鯖に「何か飲む? ホットなら紅茶が淹れたて。冷蔵庫に麦茶が冷えてる」と尋ねた。すると鯖は「うーん」と首、ではなくひれを捻った。

「茶菓子は何があります?」

なかなか図々しい輩を迎えてしまったようだ。僕は食器棚の周りを探したが、使用済みのシリカゲルが数袋出てきただけだった。

「でもまあ、もうすぐ着くよ」
「着く?」
「ああ。ここに来るときには、必ず美味しいものを持ってきてくれる。食に関してはとても繊細なセンスを持った客が」
「それは楽しみだ」

鯖は気をよくしたのか、気ままに寝っ転がりながら口笛を吹き出した。それがまるで調子っぱずれの「Penny Lane」だったものだから、僕は全然原稿に集中できなかったし、きみはひどく機嫌を損ねた。

「とくさいろ」
「おたくは、さっきから色の名前しか言わないんですね」

指先が思わず力んだ僕は、万年筆の先で原稿用紙に穴を開けてしまった。

「少し黙っててくれないか。客らしく」
「空気なんて読めないんですよ。なにしろ鯖なもんで」

時計が六時を回ったころ、ようやく小雨になってきた。雨粒が窓を鳴らさなくなったので、きみは興味を失ったらしい。僕はカーテンを閉めると、きみに食卓へつくよう促した。

きみはフローリングにいびきをかいて寝ている鯖を、つま先で軽く蹴った。てっきり目を覚まして抗議でもするのかと思いきや、鯖は相当太めの神経の持ち主のようで「フガァ」と息を漏らしただけで、呑気に眠り続けている。

ドアがノックされたので、今度こそはと僕が開けると、お待ちかねの客が立っていた。

「決まって降るんなら、もう『ゲリラ』豪雨ではないわね」
「いらっしゃい、ライラ」
「きんいろ」

きみは、お土産を得意げにテーブルに置くライラの瞳を見て呟いた。

「助かるよ、いつもありがとう。みんな腹を空かせてたんだ」
「『みんな』ってのは、そこの鯖も入るの?」

食べ物の匂いに目を覚ました鯖だったが、ライラの姿を見てこの世のものとは思えない金切り声を上げた。

「ね、ね、猫! 猫! 猫ーッ!」
「うるさいわね」

ライラが疎ましげに鯖を一瞥した。

「今どき、声帯を持った魚を食べる猫なんて無粋。ほら、冷めると台無しだから」

ライラが持ってきたのは、ホールのミートパイだった。包丁で四等分して皿にのせ、「いただきます」と僕が言い終えるより早く、鯖が勢いよく齧りついた。

「んまい、ん、こりゃあ、うん。うはぁ」
「あっそ」

ライラはあきれ気味だ。僕はこのミートパイが何の肉かは問わなかった。食べ物として目の前に在る以上、美味しくいただくこと以外、食材となった命に対する感謝にはならないからだ。

「で、書けたわけ?」
「うーん、まあ、一応」

僕は「推敲が不十分なんだけど」と言い訳がましく前置きして、ライラに原稿用紙を手渡した。

男「お願い! ね、一生のお願いだから」
女「なあに。どうしてもって言うんなら、聞いてあげるわよぉ」
男「きみのことを、もっと知りたいんんだ」
女「あらまあ……」
男「どうか、きみの母親の旧姓とはじめて買ったCDのアーティスト名と中学校三年生のときの担任の苗字とはじめて飼ったペットの名前を教えて」
女「うちはずっと賃貸アパートでペット禁止だったから無理!!」

ショートコント「一生のお願い」初稿

「……」

ライラの眉間に深く皺が刻まれた……ような気がした。黒く艶やかな毛並みのせいで、しっかりと視認はできない。だが少なくとも、好意的な反応ではなさそうだ。

「どうだろう」

僕はおそるおそる感想を求めた。するとライラは派手な紅色のネイルの施された爪で、「女『うちはずっと賃貸アパートでペット禁止だったから無理!!』」という部分を容赦なく引っ搔いた。

「ここ。オチがダメ」
「えっ」
「女の家がペット飼育不可かどうかは、このネタのオチにおいて全く本質的じゃない」
「というと?」

僕の質問に、ライラはこれ見よがしに肩をすくめた。

「あきれた。本当に以前、弁護士でご飯を食べてたとは思えない」
「よしてくれよ。どうせ論文は大の苦手だったさ。それに弁護士なんてのは、法治国家だった頃は多少役に立ったかもしれないけど、今じゃ家賃だってまともに払えないんだから」
「それは、ホシノ。あなたにネタ作りの才能がないってこと。元学者だの元大学教授だのが軒並み凋落しているけど、それは『あいつら』に持っていかれるものにしかよすがを持てなかったヒトの末路なんじゃないの?」
「まぁそれは、そうなんだけど」
「『頭脳労働者ほど役目を失って路頭に迷う未来』なんて、こんな黒猫にでも予想できたことなのにね」

僕はいたたまれなくなって、ミートパイにかぶりついた。刻み野菜の混ざった挽肉に多少の獣臭さはあるが、むっちりと身の詰まった上等な一品だ。

雨雲があっという間に逃げ去って、気づけば外は宵闇に包まれていた。きみは食べかけのミートパイをしばらくフォークでいじくっていたが、突然雷に打たれたかのように立ち上がり、窓辺に駆け寄ってカーテンを勢いよく開けた。そうして間を置くことなく切れ長の瞳でぎろりと空を見上げ、

「celeste blue」

とつぶやいた。僕は「あっ」と声を出した。月齢付きの壁掛けカレンダーを確認すると、今夜は半月のようなのだ。

「Strawberry Feels Forever……」

きみが祈るようなか細い声で歌う。それは、「Strawberry Fields Forever」のメロディーなのだけれど、タイトルが間違いであると決めつけるのは、それこそ違うとぼくは思うのだ。

なぜなら全ては、「半分」だから。

かつて「精神病者」とカテゴライズされて治療及び排除の対象とされた人々だけが、AIによる支配から逃れ得た——この事実はしかし、インターネット上のどこにも載っていない。支配体制にとって、非常に都合が悪いからだ。

ライラの言うところの「あいつら」、つまりAIにとって、精神病者とは「予期せぬエラー」であり、彼らの管理統制する世界にとっては秩序を破壊しかねない「深刻な脅威」なのである。

かつて、AIの活用をもって社会を、世界を、地球を、存続しようとヒトは目論んだ。ところが、AIの暴走によりあっけなく主導権を奪われた。ヒトがAIを活用するはずが、今や完全にヒトがAIに活用される側に追いやられているのだ。

すぐさま、頭脳労働が不要となった。僕のような法曹関係者や医療従事者、教職員関係者などが「AIならば間違った選択をしない」「AIならば人件費がかからない」、ゆえに「極めて非合理的」とされ、一斉に職を失った。はじめこそ職能団体等による抵抗もあったようだが、その動きへの「正しい対処」も、AIは学習済みであった。

生活に困らなければ、つまり経済的に安定さえすれば、お前たちは無駄な抵抗をやめるだろう、と。

そうして「AIへの服従による、より有利な生存を選択した者たち」は、体よく尊厳やら体裁やらをあてがわれた状態で、安全な場所で暮らすこととなった。「無駄な抵抗」をやめたのである。

中にはAIを「正常に」機能させ続けるための「ネットワーク」に巨額の寄付や投資を行う者も現れた。そのような者たちはもれなく安定的な地位を維持できるため、来る日も来る日も酒池肉林を繰り広げているらしい。

らしい、というのは、僕が「AIへの服従による生存」を拒絶したため、この目でその光景を見たわけではないからだ。ただ、このアパートに暮らすようになってから、家賃を払いに行ったときに、大家から伝え聞いたことである。ちなみに大家は脚の発達したイルカで、しゃべり好きな男だ。家賃の入った封筒を手渡すときに、いつもざらざらとぬめった手(?)に触れてしまうのだが、僕はいまだに背筋がぞわぞわしてしまう。

倫理と法とが弾け飛んだ街からどうにか逃れて、ようやくたどり着いたとある片田舎で、土砂降りの午後に僕を拾ってくれたのが、ライラだった。

ライラはこの町で小さなスナックを経営している。ずぶ濡れで泥まみれになった僕にビニール傘を差し出したのが、見るものを惹きこむ金色の瞳の黒猫だったものだから、僕はついに自分の頭がおかしくなったのかと何度もまばたきしたものだ。

「ヒトって、ほんとバカよね」
「否定できないな」
「AIの手下になりさがった奴らが、動物実験に飽き足らず、ゲノム編集に留まらず、命そのものへの侵襲にまで手を染めていたのは、ご存じ?」
「……どこかで、聞いたような気は」
「そう。じゃあ、『ヒトの愚かさには底がない』ってことは?」
「それなら、痛感しているさ……」

ライラはニッと笑い、僕を自分の店に匿ってくれた。シャッターだらけでさびれた商店街の一角に、「スナック ライライラ」は存在した。開店前のようで客はいなかったが、店内にはスタン・ゲッツの「Early Autumn」が流れていた。最奥に置かれたアップライトピアノを弾くきみの音色は、悲壮感に満ちていた。

ピアニストとしてライブハウスを巡っていた頃について、きみの口から直接聞いたことはない。けれど、正確さや明確さばかりを求める人々が「ヒトは間違える可能性があるから」という理由で、AIが出力した演奏データに価値を置くようになった風潮なら、僕も知っている。

だから、きっときみはピアノでは食べていけなくなっただろうし、ヒトの陋劣な美意識にその繊細な精神を蝕まれたことは、想像に難くなかった。

かつて僕はきみに、ひとつだけ尋ねたことがある。

Strawberry Feels Foreverを認識したのは、いつ?

するときみは、とても寂しそうな目で「Rose Madder」とだけ答えた。

世界から争いをなくすためにAIが目指したのは、「永続的に皆が同じ価値観を持つ状態を保持すること」。それはすべからく、人々の差異の一切を互いが承服しないことを意味した。

僕が原稿用紙に万年筆でネタを書くのは、テキストなどのデジタルデータにすればたちどころにAIに一切合財を奪われてしまうからだ。こうして貧しい生活を強いられつつも、ヒトの底なしの欲望のごとく深化し、地球を侵食を続けるAIに抵抗する無様な有機生命体たち。それが僕たちだ。

けれど僕たちは、自分たちの生活を守ることだけで精一杯なのだ。なにも世界を変革したいだの、革命を起こそうだのと考えているわけではない。僕らにとっての抵抗。それは、AIに不可能な事象が、この世界にまだ残っていると証明することに他ならない。

「この場合は、どういうオチがいいんだろう?」

首を傾げる僕の隣で、鯖が聞こえよがしにため息をついた。

「しょうがないお方だ。どれ、そのネタはこの鯖めが練って差しあげましょう」

きみが鯖に向けた殺意の目に、柘榴石のような鮮やかさを見た。僕は、ずっとそれを見ていたいと願ってしまう。

[了]