第一話 ぐるん

橋本朝香は自宅のドアを開けるのと同時に、大きくため息をついた。返却期限を迎えた本を図書館へ返しに行くという外出の口実があってよかった。自室にいても退屈だし、リビングでは母親が眉間にしわを寄せて、テーブルでうたた寝しているだけなのだ。「どこへ行くの」だの「何をしにいくの」だの尋問されるのが嫌で、朝香にはいつしか、なるべく物音を立てないようにシューズを履き、蝶番を軋ませずにするりと体を外に押し出すという無駄なスキルが上達してしまった。

今日も朝から晴れていて雲ひとつないことが、朝香をほんの少しだけうんざりさせる。舗道に並び立つ桜の木々を見やると、つぼみが膨らんでいるものが多く、おそらくじきに開花するのだろう。以前は「開花宣言」というものがあり、人々が一様に桜を待ちわびるという風習があった。

朝香は早足で駅前のペデストリアンデッキを抜けようとした。ロータリーには今日も真っ白な街宣車が陣取っており、車体の側面に設えられた黒くて大きなスピーカーからは、音の割れた「ジムノペディ第1番」がエンドレスで垂れ流されている。街宣車の上からお揃いのロゴ入りシャツを着た笑顔の人々がこちらに手を振ってくるのがわかっていたから、朝香は目を合わせないようにして通り過ぎた。

背後でまばらな拍手が起きて、街宣車の上にいた一人がマイクでしゃべり始めるのが聞こえたが、朝香は決して振り返らない。

「――皆さん、いずれ再び審判の刻はやってきます。今まさに此処に居ることを唯一の理由として、我々は、間違いなく、選ばれし存在なのであります。新樹様の裁きを、我らの手でこそ、実現していかなければなりません!」

演説の音声を振り切るようにして、朝香は駅の反対口にある図書館を目指した。

読み終えることなく返却したのは「空の芸術シリーズ 夕焼け編」というタイトルの写真集だった。A4横長のハードカバー仕様で、色彩を丁寧に再現するために厚みのある紙が使われているため重量感がある。

文字のほとんどない写真集を、朝香がどうして読破できなかったのか。それは、とあるページに掲載されていた写真に、なぜか強く惹きつけられてどうしても次頁をめくることができなかったからだ。返却の前に、朝香はこの夕焼けを撮影したカメラマンの「堀之内明」という氏名と撮影地をメモに取った。

図書館を出ると、小腹がくぅと鳴った。ランチ時には少々早かったが、どうせすることもない。どこか安価な喫茶店にでも入ろうとぷらぷら歩いていくと「あけぼの公園」が見えてきた。ここには小学生のころ、よく遊びに来ていた。「遊具エリア」には鉄棒にすべり台、うんてい、ブランコに砂場、それから水飲み場が一通り揃っている。

隣接する「はらっぱエリア」の花壇にはいつも季節折々の花が咲いていて、芝生の上にごろんと横になれることも、朝香のかつてのお気に入りだった。

公園の入口に、のぼりが数本はためいていた。サーモンピンクの生地に白抜きの丸っこくポップなフォントで「まちのマルシェ」と書かれている。「はらっぱエリア」には折りたたみテーブルがずらりと並べられており、ハンドメイドのアクセサリーやブックカバー、レザークラフトなどが売られていた。

「遊具エリア」近くの隅のブースには、アイシングクッキーの入った丸い缶が所狭しと並べられていた。パンジー、デイジー、すみれ、紫陽花などを象ったアイシングクッキーは手作りだからか、一つひとつに表情があるように感じられた。朝香は思わず、足をとめてその愛らしさに見入ってしまった。

「試食します?」

ブースで店番をしている男性に話しかけられて、朝香ははっと顔を上げた。マッシュボブの黒髪が目元にかかるほど伸びていて、パステルブルーのポロシャツを着た男性が折りたたみ椅子から立ち上がると、にこりともせずタッパーに入った試食用のクッキー缶を朝香に差し出した。

「え、あ、はい。どうも」

ひとかけ口に入れてそっと噛んでみる。クッキーは想像よりも柔らかく、程よい甘さが空腹にじんわりと沁みた。

「おいしい」

朝香がつぶやくと、店番の男性は「そうですか」とだけ返した。朝香はてっきり営業をかけられるのかと思い内心身構えたのだが、男性は折りたたみ椅子に座り直すと、そのまま俯いてしまった。

朝香が戸惑い気味に「あの」と声をかけても、男性から返事はない。地面の芝生を凝視しているのだ。しかし何か言葉を発してはいるらしく、体は石像のように固まっているものの、口元だけは緩んでいるようだった。

「……そう。……うん。うん、わかってる……うん」
「これ、ください」

朝香が手前のクッキー缶を指さしても、男性は決して目を合わせてくれない。それどころか、目を閉じて頭をゆっくりと左右に揺らしはじめてしまったものだから、朝香は呆気にとられた。

「あ、すみません!」

いきなり背後から声がしたので、朝香は驚いて振り向返った。そこには7、8歳くらいの女の子とその母親らしき女性が、バルーンアートを持って立っていた。

「この子がどうしてもって言うものだから、つい夢中で作っちゃって」
「あ! 晴也せいや、またチューニングずれてるー」

女の子が力を込めて、バルーンソードで晴也と呼ばれた男性に斬りかかる。「あ、こら楓子ふうこ!」の声とほぼ同時に、晴也が朝香をぎろりと睨んだ。

「……何か用」
「えっ」
「晴也くん、お客さんだよ、もう」
「客」

女性がフォローを入れるが、晴也の反応はきわめてそっけない。

「店番、疲れちゃった?」
「いえ。ただ、ちょっと、行ってきます」

晴也は一転して素早い挙動で立ち上がると、ぽかんとする朝香の目の前を素通りし、「遊具エリア」へ直行した。迷うことなく一番背の高い鉄棒を両手で力強く掴み、勢いよく地面を蹴ると、晴也は空中逆上がりをしはじめた。

ぐるん。
ぐるんぐるん。
ぐるぐるぐるん。

見ているほうの目が回りそうだ。

「晴也、すごいぐるぐる〜!」

楓子がケラケラと笑った。その光景に朝香が茫然としていると、「五百円です」と声をかけられた。

「えっ」
「クッキー、お買い上げですよね?」
「あ、ええ、はい」

朝香がおぼつかない様子でリュックに手を突っ込むので、店番を交代したその女性は「慌てなくて大丈夫ですよ」と声をかけた。フェイクレザー製の小銭入れから五百円玉を取り出した朝香に、女性はクッキー缶を入れた紙袋と一緒にリーフレットを手渡した。

「これ、私たちの紹介です。よかったらお読みください」

表紙部分には「NPO法人シエル コミュニティカフェしえる 地域活動支援センターⅢ型オーブ」という文言が併記されている。どうやら福祉関係の施設のようだ。

リーフレットの表紙をめくった朝香は驚愕した。そこに載っていたのは、紫色とピンク色の入り混ざった夕焼け空が湖面に映って鏡のようになっている写真で、右下に小さく「撮影・堀之内明 撮影地・奥多摩湖」とクレジットされていたからだ。

「あの、ちょっとお尋ねしたいんですが」

朝香が思い切って店番の女性に話しかけると、とたんに女性は目を輝かせた。

「うちは駅の南口から歩いて十分くらいの住宅街にあります。一見、何の変哲もない一軒家なんですけどね。一階が『カフェしえる』、二階が地活センターの『オーブ』。このクッキー、『しえる』でも提供しているものなんです。パティシエがいるんですが、その子がとても繊細な感性の持ち主で」
「はあ」
「それだけじゃないですよ。カフェではびっくりするくらい美味しい紅茶が飲めるんです。喫茶店なら五、六百円はするクオリティの一杯が、なんと二百円。茶葉はオーナーの厳選ですから、とても人気なんです」
「はあ」
「来てみます?」
「えっ」
「実はいま、ボランティアを募集しているんです。あなたのような若い方が興味を持ってくれるのは、とても嬉しいですし」

訊きたかったのはそういうことじゃなくて。言いかけたのだが、朝香はその女性の笑顔に、思わず言葉を引っ込めた。

楓子がバルーンソードを両手に持って、鉄棒の下に座り込んで乱れた前髪のすき間から青空を仰ぐ晴也の背中を「やー」「とりゃー」と容赦なく斬りつけている。晴也は一度だけ深呼吸をすると右腕を突き上げるように伸ばし、楓子の襲撃を受けながら、掠れた笑い声を漏らし続けていた。

第二話 再会 へ続く