第二話 再会

「碑」が生命活動を維持していること、しかも外部刺激に対し生理現象としてだけではなく一定程度の人間的な反応——例えば泣く、怒るなどの感情表現を示すことは、一部の研究者たちによって既に明らかになっている。

しかし、このことは全くといっていいほど一般市民には周知されていない。以前のようにSNSなどで情報が氾濫する時代ではないし、そもそもインターネットが使えなくなって以降、人々の多くは他者に対する過剰な興味関心を失った。

社会の空気を支配していた不寛容や抑圧が嘘のように消え失せてしまったことで、人々は己の手の届く範囲の日常を、容易く絶命する雛を手のひらで包むように大切にしはじめた。

途方もない絶望と悲嘆、それから一抹の安堵。いまこの社会に暮らす人々は、それらを等しく経験し、否が応でも共有しているのだ。

朝香は「まちのマルシェ」で応対してくれた女性から名刺を受け取っていた。そこには「地域活動支援センターⅢ型オーブ 永山小夜」という名前と所在地が記載されていた。「コミュニティカフェ しえる」は、一軒家の一階部分にあるらしかった。

マルシェから二日後の火曜日、朝香は名刺の情報を頼りに「コミュニティカフェ しえる」を訪ねることにした。カフェは月曜日から木曜日の午前十一時半から午後三時までの営業とのことだが、正午前後はランチ時で混雑するかもしれないと考え、午後一時半すぎに到着した。

近隣に小学校があるので、それが目印になったおかげで迷わずに済んだ。小夜の言っていたとおり、確かにぱっと見はただの一軒家だが、表札部分にウッドボードが掛けられていて、そこに手書きの文字で「コミュニティカフェ しえる」とあった。

「こんにちは」
「いらっしゃいませ!」

恐るおそる入店した朝香を快活な声が迎える。朝香はホッとしたのもつかの間、その声の主に驚いた。

「えっ、楓子ちゃん」
「一名さまですか? こちらへどうぞー」

ホールを担当しているのは、楓子だった。赤と白のギンガムチェックワンピースにあんず色のエプロンを着けている。小さな体を元気いっぱいに動かし、いっぱしのカフェ店員として楓子は朝香をテーブルへ案内した。

「今日の日替わりランチは生姜焼きセットです」
「あ、じゃあそれをお願いします」
「セットのお飲み物はどちらにしますか」
「紅茶が飲みたいです」
「はーい、少々お待ちください!」

軽やかに踊るような足取りで楓子はキッチンに向かい、「日替わりひとつ、お願いしまーす」と告げた。店内を見渡すと、高齢女性三名のグループがおしゃべりを楽しんでいたりスーツ姿の眼鏡をかけた男性がホットコーヒーをお供に文庫本を読んでいたり、楓子と同年代の女の子とその母親の二人が「デザートに何を選ぶか」について楽しそうに相談していたりしていて、和やかな雰囲気に満ちている。

すぐ隣のカウンター席では、男性がもりもりと生姜焼きを食べていた。セットにはドリンクだけではなく、スープも付いてくるようだ。スープには、ダイスカットされたベーコンやにんじん、じゃがいもに大根、なすなどたくさんの具が入っていて実に美味しそう……。

「何か」

空腹のせいか朝香はつい、オールドローズのポロシャツを着たその男性のカフェプレートを、まじまじと見てしまっていた。

「すみません」

男性は朝香を一瞥しただけで、すぐに食事に戻った。ところが、彼の相貌を認めたとたん朝香は思わず、「あ」と声を上げてしまった。すると再び食事の手を止めて、男性は「何か」と繰り返した。

「あの。ええ、この間は、どうもでした」
「……どうも」

なんだろう。なぜだろう。確か晴也、と呼ばれていたか。なぜか、この人とスムーズな会話をできる気がしない。何か自分が、彼に対して粗相をしたのだろうか。でも、もしもそうだったら、そうだと教えてくれればいいのに。朝香がもやもやを持て余していると、テーブルにひょっこり楓子がやってきた。

「お客さま、すみません。紅茶はレモン、ミルク、ストレートから選べます。ちなみに今日はアールグレイのご用意になります。ホットとアイス、どっちにしますか」

愛らしささえ覚える楓子が、このときの朝香にとっては一服の清涼剤となった。

「じゃあ、ホットで。ミルクをお願いします」と伝えると「はーい」と元気よく返事をして、楓子はキッチンに戻っていった。

「ふーん」

楓子とのやりとりを見ていた晴也が、つまらなそうにつぶやいた。

「アールグレイをホットで、しかもミルクを入れて」
「え? あ、はい」
「主成分の酢酸リナリルには鎮静作用、鎮痛作用、抗炎症作用がある。さらに神経の緊張も解きほぐす。抗不安、抑うつにも効果的。抗菌作用が皮膚疾患にも有効とされているから、かつて万能薬とされていた時代もあった」
「はい?」
「ホットにした上、ミルクを入れたりなんかしたらベルガモットが飛んでしまう」

流暢で抑揚のない声で、尋ねてもいないことを聞かされて、さすがに朝香はむっとした。

「別に、構いません」
「そう」

晴也が食事を終える頃、キッチンのほうから「晴也くーん。そろそろ交代の時間ー」と声がした。晴也は何事もなかったかのように朝香の前を素通りして、キッチンへと消えてしまった。

もしかして、あいつが接客でもするの? ちゃんと務まるの? なんか感じ悪いんですけど。

イライラした気持ちが表情に出てしまっていたのだろう。空のグラスへ水を注ごうとした楓子に「おなか痛いの?」ときかれて、朝香は慌てて首を横に振った。

「ううん、違います。ごめんね」
「ならよかった。じゃあ暁子さん、お願いしまーす!」

日替わりランチのプレートを運んできたのは、還暦間近の朝香の母親よりも五歳ほど年上に見える女性だった。髪の毛を束ねているバンダナの淡い水玉模様とエプロンの爽やかなミントグリーンがよく似合っている。

「お待たせしました。スープは熱いからゆっくり飲んでくださいね。紅茶はいま、オーナーが丁寧に準備をしています。アールグレイはね、ホットでもミルクを入れても、ちゃんと美味しく淹れられるの。その人の好みに合わせてひと工夫すればいいことなのよ。ベルガモットの風味だって楽しめるから、安心してね」

そう言って、暁子は朝香にウインクした。

「いただきます」

できたての生姜焼きを、ほかほかの白飯にのせて頬張る。よく炒められたジューシーな豚こまに、すりおろした生姜の風味が絡んで箸が止まらない。付け合わせのサラダのプチトマトを食めば、口の中でみずみずしく弾ける。スープは期待以上に具だくさんで、野菜とベーコンから旨みがしっかりと出ている。気取ったところのない家庭的なメニューで、一品一品、丹精を込めて作られていることが舌から伝わってきた。

朝香は先ほどまでの不機嫌をすっかり忘れて、口を動かしながら何度も頷いた。あっという間に平らげて「ごちそうさまでした」と手を合わせたタイミングで、テーブルにことん、と軽やかな音を立て、透明なソーサーにのった透明なカップが置かれた。柔らかいベルガモットの香りが鼻に届く。お待ちかねの、ホットのアールグレイだ。

「食後の紅茶です」

穏やかなそのテノールに朝香は、うまく眠れなかった日に自室から朝焼けを見るため窓を開けた時に頬を撫でる、暁風のような心地よさを覚えた。さっぱりとした黒髪ショートにオーバル型の黒縁メガネをかけた男性はにこりと笑い、朝香のテーブルの対面に腰掛けた。朝香と同世代のようにも見えるし、ずっと年上のような雰囲気もあるが柔らかな笑顔は少年のようで、まったく年齢不詳だった。

「よく来てくれました」
「あ、はい」
「学生さんですか? 大学生?」
「え?」
「ああ、すみません。まずは僕から名乗るべきでした。僕は境蒼斗といいます。『カフェしえる』のオーナー兼『地活センターオーブ』の施設長をしています」

朝香はきょとん、と蒼斗を見た。

「どうぞ、紅茶を飲みながらで結構ですよ。淹れたてを味わってほしいですし」

朝香がカップにそっと口をつけアールグレイをすする。その様子を蒼斗は頬杖をつきながらにこにこと眺めている。

「……美味しい」

お世辞などではない、心からの言葉が朝香の口から漏れた。

「それは嬉しいです。おなかに余裕があれば、デザートもいかがですか」

蒼斗がテーブルに置かれていたはがきサイズの手書きメニューを差し出した。本日のデザートはガトーショコラだ。朝香はマルシェで買ったアイシングクッキーの味を思い出し、迷うことなく追加注文をした。

「もし学校が忙しいときは、遠慮なく学業を優先してください。ここに来られるとき、僕たちと一緒に活動してくれたら、とてもありがたいです」
「えっと……」

朝香は言葉に詰まった。どう返答すべきか考えあぐねていると、そこへ朝香と同年代の女性が、ガトーショコラを載せたトレーを運んできた。

「どうぞ」

その女性は澄んだ声をしていた。ゆっくりとした動作でトレーと紙ナプキン、フォークを置く。

「こちらは、稲城夕実さん。『しえる』が誇るパティシエです。スイーツ関係はみんな、夕実さんの作なんですよ」

蒼斗にそう紹介されて夕実は、はにかんだ表情で小さく会釈をした。

朝香は思わず息を飲んだ。夕実の左腕に、刃物でつけたような傷跡がいくつもあることだけが理由ではない。朝香が、夕実を知っていたからだ。

「凪」が起きる前、中学生だった頃。あの中学校で、あの校舎で、あの教室で、夕実と朝香は同じ濁り切った空気を吸っていた。まるで見えない鎖に心をがんじがらめにされるような息苦しさの中、夕実は、窒息したのだった。その時のことを、朝香は今でも鮮明に覚えていた。

第三話 ぼんやり へ続く