第三話 ぼんやり

コミュニティカフェ「しえる」の営業終了後、蒼斗は朝香を二階部分の地域活動支援センター「オーブ」へ案内した。朝香は、清掃など閉店後業務を手伝うと申し出たが、蒼斗いわく「まずはこの場所について知ってほしい」とのことだった。

二階へ上がる前に蒼斗が郵便受けを覗くと、緑色を基調としたカラフルなチラシが入っていた。

「あ、それって」

朝香が言いかけたが、チラシの左上にプリントされたロゴマークを視認したとたん、蒼斗は右手でそれをぐしゃぐしゃに丸め、センターとして使っているスペースに入ってすぐ、ゴミ箱へ投げ入れてしまった。

「せめて裏面が白ければ、小さく切ってメモ用紙にするとか、使い途もあるんですけどね」
「『真樹境界』のですか」
「はい。だからゴミです」

スペースには一足早く二階に戻っていた小夜が、茶菓子を用意して待っていてくれた。

「さっそく来てくれてありがとう」
「あ、いえ。時間ならいくらでもあるんで」

朝香は自虐でそう言ったのだが、小夜はまったく気にしていない様子である。

「そう。じゃあ蒼斗くん、まずここの紹介、お願いしてもいい?」
「もちろんです」

蒼斗が朝香に、ソファへの着席を促す。朝香はきょろきょろとスペース内を見渡していたのだが、蒼斗の背後に飾られていた一枚の写真に目が釘付けになった。

「ああ、その写真ですか。見事な夕焼けでしょう」
「……どなたが、撮ったんですか」

朝香は、写真に見惚れたまま尋ねた。

「それは、この『シエル』を創設した人です」
「えっ、じゃあ、こちらにいらっしゃるんですか」
「いえ。彼が今どこにいるのかは、僕も知りません」
「そうなんですか」
「とにかく気まぐれな人で、いろんなことに縛られることを好まないから」

蒼斗はゆっくりと振り返り、その写真を見ながら続けた。

「カメラとギターがあれば、そこがあの人の居場所になるみたいなんです」
「へぇ……」

小夜が勧めてくれたので、朝香は手を伸ばしてチョコチップ入りのクッキーをつまんだ。期待通り、やはり美味しい。さくさくとほろほろ、甘みとほんの少しの塩味とのバランスが絶妙だ。朝香がリラックスしてきたと判断した蒼斗は、施設の紹介をはじめた。

「『オーブ』は、もともと地域活動センターのⅢ型でした。『しえる』は、就労継続支援B型として設立されました。『オーブ』と『しえる』を運営する法人主体が『シエル』となっています」
「はあ」
「以前は、設置基準だの利用登録者数だの、運営にあれこれ要件が求められました。でも、そういったことはもう、特に気にする必要ないので、気楽にやってます」
「はあ」
「ここはね、『居場所』なんです」
「え?」
「人と人とがゆるやかに繋がったり、そっと離れたり。沈黙や独り言、おしゃべりが同じ空間に漂っていたり。美味しいものを分けあったり、独り占めしたり。なにより、誰からも評価されないし、誰も誰かを評価しない。そういう場所なんです」
「つまりね、『どなたでも』来てください。自由に過ごしてくださいってこと」

小夜が補足をする。「どなたでも」にアクセントが置かれたことから、朝香はこんな質問をした。

「それは、私も来ていいという、そういう意味ですか」
「そうね。私としては、ぜひ『しえる』のボランティアとして関わってもらえたら嬉しいんだけどな」
「私は……」

朝香は、夕実の傷だらけの左腕を思い出して、力なく首を横に振った。

「つまらない人間です。皆さんのお役に立てることも、きっとありません。料理も接客もやったことないし、掃除だって苦手だし。大学にもなんとなく入ってしまったから、人間関係が嫌になっただけでやめちゃって。それから、何回か倉庫のピッキングとかポスティングとか、そういうアルバイトをしてみたんですけど、全く続きませんでした。実家暮らしだから、暮らすには困らないんですけど。父も母も、私に興味がないので自分の部屋も居心地悪くて。だから、もうずっと、昼間は図書館で時間を潰したり、飲み物一杯で何時間も喫茶店に居座ったり、そんなことばっかしてます」

思いがけず吐き出すように勢いよく話してしまった朝香は、それから口をつぐんだ。

「この部屋ね、桜の木がよく見えるんです」

蒼斗はスペースの窓についていたブラインドを上げた。スペース内に、春特有のぼんやりした西陽が差し込む。

「すぐ近くに小学校があるでしょう。ちょっと前に入学式があったみたいで。校門の手前に掲示板があるんですけど、そこに今、なんて書いてあると思います?」
「え、『入学おめでとう』とかですか」
「そうです。それって、変だと思いませんか」
「え?」
「『卒業おめでとう』なら、まだわかるんです。生きて出られてよかったね、という意味だから」

朝香は返答に窮した。腰掛けているソファのクッションと木製の肘掛け部分との境目に視線を逃してみたところで、この気持ちの目詰まりが解消されるわけもない。

「入ってきて大丈夫ですよ」

蒼斗がドアの向こうへ声をかけた。少し間を置いてからドアがゆっくりと開いて、夕実が姿を見せたものだから、朝香は瞠目を隠せなかった。

夕実はテーブル越しに、おどおどする朝香の対面へ座ると、その瞳をじっと見つめた。

「橋本さん、久しぶり」
「あ、うん。久しぶり」
「びっくりした。ここで会うとは思わなかった」
「私も、うん。びっくりした」

夕実の瞳孔が、しっかりと朝香を捕らえる。

「……日高美花のこと、覚えてる?」

夕実の口からその名前を聞いて、朝香は反射的に顔をしかめた。もう二度と会いたくなければ、話題として触れてすらほしくなかったからだ。だが、日高美花のことは、どうしたって忘れられるわけがない。朝香は苦虫を嚙み潰したような表情で小さく頷き、できるだけ言葉が荒れないように気を張った。

「推薦入試で、白麗高校に行ったらしいよ。あの公立の名門校の。そこから国立大学を卒業して、IT系の大企業で広報部に就職したんだって。それから、ベンチャー企業を立ち上げたみたいで」

SNSが存在していた頃、日高美花の華々しい経歴は若い世代を中心に憧れの的として注目を集め、そのアカウントには数十万人ものフォロワーがいた。

ネットニュースにインタビュー記事が取り上げられたこともあり、その見出しには「期待しかない! 新進気鋭の若手女性起業家のしなやかな挑戦」とあった。コメント欄には、日高美花を称賛する書き込みが殺到していたのを朝香も実際、目にしていた。そのときに、怒りとか悲しみとか、そういう類の感情を遥か遠く通り越して、度し難い脱力感と虚無感に襲われたことを朝香は思い出した。

「そうなんだ。笑っちゃうな」

夕実が、ぽつりとこぼした。

「でも、越えられなかったんでしょう?」

その問いに対して、朝香は胸元にむず痒さを覚えながら答えた。

「うん。『碑』になった」
「そう。それは、笑えないな」
「そうだね」

そうして黙り込んでしまった二人だったが、ふと朝香が視線を感じて顔を上げると、スペースのドアから楓子と晴也、それに暁子までがひょっこり顔を覗かせている。朝香と目が合って、最初に声をあげたのは楓子だった。

「ねぇ、入っていい? 喉渇いたー」
「どうぞ」

蒼斗が三人を招き入れた。小夜が手早く人数分のグラスを用意し、麦茶を注ぎ入れた。喉を鳴らしてあっという間に飲み干す晴也を見た楓子が、対抗心を燃やしてチャレンジしたが最後まで飲みきれなかった。クスクスと笑う晴也に楓子が「もー、くやしい!」とむくれるものだから、その場の空気が一気に氷解した。

「みんな、気づいてました?」

蒼斗が窓の外を指さすと、一同は肩を並べて小学校の桜の木に注目した。

「開花したんです。今日、ここに来るとき見かけました」
「ほんとだ!」

楓子が嬉しそうに、ぴょんぴょん体を跳ねさせた。

「季節は、巡るんですね。『凪』が起きようと、『凪』に人間たちがどんなに打ちひしがれようと、そんなことはお構いなし、ただ繰り返す」

蒼斗の言葉に、小夜が茶菓子をつまみながら世間話でもするかのような口調で言った。

「まあ、繰り返すのは人間の愚かさも同じだけどねー」

第四話 傍観者と被害者 へ続く