朝香は俗に言うスクールカーストで「三軍生徒」だった。中学校に入学して間もなく強固な階層が形成され、一軍という強者の地位を獲得した生徒たちは、あらゆる形態の暴力を好き放題に振るった。無視や揶揄に留まらず、陋劣な行為は加速度を増してエスカレートしていった。
いかに標的にした者の人格や尊厳を貶めるかについて、一軍生徒たちは腐心した。彼ら彼女らに言わせれば、「標的になるほうが悪い」のであって、「自分たちには人を傷つけても構わない権利がある」から、「被害者面とかまじでうざい」らしかった。
「自分たちは悪くない」し、「だって大人だってやってるじゃん」というさもしい主張が、あたかも暴力や理不尽の正当化事由であるかのようにまかり通っていた。
それでいながら、一軍生徒は教師など大人の前ではその腐りきった心根をおくびにも出さず、優等生としての振る舞いに長け、あまつさえ生徒会に所属して大人たちから高い評価を得ている者までいた。
日高美花は、朝香と夕実の通っていた中学校の生徒会の副会長で、もちろん一軍生徒だった。
クラスの半数ほどは二軍という立場だった。なんとしても一軍の標的になるまい、あわよくば一軍に昇格したい。そんな浅ましい重圧による苛立ちをSNSの裏アカウントでぶち撒けたり、一軍におもねるため三軍への嘲笑に加わってみたり。二軍の生徒にとっては、いかに自分が無難に毎日をやり過ごすかが最重要事項だったから、学校内に横行する暴力や理不尽に対して声をあげることなど、もってのほかだった。つまり、三軍生徒がどんな暴力や理不尽に晒されようと、火の粉が己の身へ降りかからない限り、学校生活とは「平穏無事」なものなのだった。
夕実は、三軍ですらなかった。早々にスクールカーストのくだらなさから距離を置くことを選択した夕実は、まったくの一匹狼であった。そんな夕実のスタンスが一軍生徒たちの不興を買ったのは言うまでもない。学業優秀でありながら、気取ることも威張ることもしない夕実のことを標的にした急先鋒が、日高美花だった。一軍生徒たちが、時に二軍生徒たちを駒にしてあらゆる嫌がらせを試みたが、夕実が意に介することはなかった。そんな姿に、朝香は密かな憧れを抱いていた。
文化祭の季節のこと。日高美花の提案で、「クラスの結束を高めるため」に通信アプリでグループのトークルームが作成された。朝香はしぶしぶ登録したが、もちろん夕実は拒否した。トークルーム内は悲惨なありさまだった。一軍生徒がなにか発信をすれば、可能な限り早く同意や賛同の返信をしなければならなかったのだ。一軍生徒たちの溜飲を下げるためだけに、二軍三軍の生徒たちは神経を削ることを強いられていた。
中間テストの順位が廊下に掲示され、トップに夕実の名前が載っていたことを快く思わなかった日高美花が、あることを思いついた。ほどなくしてグループトークルームに、二軍生徒の女子が一枚の写真を投稿した。テスト中の教室の様子をスマホカメラで撮影したもので、「なんか、、偶然撮れちゃったんだけど。。」というテキストが添えられていた。そこには、机の引き出しを死角にして小さな紙片を隠し持つ夕実の姿が写っていた。
当然、それはパソコンを使った偽造写真だった。多くの生徒はそのことを理解していたはずだが、トークルームはすぐさま「カンニングとかww」「だっさ。そこまでして成績上げたいのかなぁ?」「承認欲求の塊は氏ね」「即刻先生に通報案件なのだが」など、読むに堪えない投稿であふれかえった。偽造写真の作成と投稿を二軍女子に指示した日高美花は、トークルームに「そうなんだ。なんか残念だな」とだけ投稿した。
それからのことは、朝香が思い出すにはあまりに酷だったし、夕実にとってはもはや絶望する価値すらないことだった。夕実には夢があった。パティシエになるため、将来は奨学金で大学に進学し、フランス語を専攻し、いずれ本場に留学して修行するというものだった。
夕実は、母子家庭に育った。経済的には決して裕福ではなかったが、母はいくつものパートを掛け持ちしながら、夕実に惜しみない愛情を注いでくれた。誕生日やクリスマスなどには、商店街の小さなパティスリーでケーキを買ってくれた。
ショーケースに並ぶショートケーキ、ガトーショコラ、モンブラン、ミルフィーユ、ザッハトルテ、タルト……。心を込めて作られたケーキたちは、幼い夕実にはきらきらと輝いて見えた。夕実は、特に「渋皮栗のタルト」が大好きだった。
金銭的な余裕のないときには、母は手のひらサイズのクッキーボックスを買ってきた。母は「ごめんね」と言ったけれど、アイシングクッキーだって夕実の大好物だったから「お母さん、ありがとう」と、いつだって夕実は笑顔になれた。
美味しいスイーツは、目や舌に楽しいだけではない。人を笑顔にする魅力があるのだと知った夕実は、自分がパティシエになって、母を笑顔にしたいという願いを持っていた。
すべて、奪われた。
日々繰り返された暴力や理不尽に無反応を貫いていた夕実が、決してダメージを受けていないわけではなかった。夕実は、感情を殺し続けることで、懸命に歯を食いしばって耐えていたのだ。
心が悲鳴をあげていることに夕実自身が気づいたのは、細く色白な左腕から滲んだ血のあたたかさに、涙が止まらなくなったときだった。
自室にこもってカミソリを握っては、刃を腕や手首にあてがう日々。時間だけが無為に過ぎてゆき、夕実は切に死ぬことを望むようになった。
「お母さんが仕事の合間を縫って、部屋から出られない私の代わりにメンタルクリニックで薬をもらってくれてたんだ。でも私、馬鹿だから、薬なんて指示通りになんて飲まなかった。それで、成人式の年に同窓会の案内が届いたでしょう。日高美花が幹事の。それでね、その名前を見たとたんに、『あ、無理』ってなって。溜め込んでた薬、全部飲んじゃったんだ」
当の夕実ではなく、大粒の涙をぼろぼろこぼしたのは朝香だった。夕実は淡々と続ける。
「でもね、『しえる』と出会えたから、今は大丈夫って思えてる。こう見えて忙しいんだよ? お菓子は仕込みからとっても手間暇がかかるから、一日働くともうクタクタ。でもね、夜はとてもよく眠れるの。だから、毎朝ちゃんと目が覚めることが、とにかく嬉しいんだ。『しえる』のみんなは面白いし、お客さんにも『美味しい』って言ってもらえたりするし。私、ここからもう一度、歩き出せる気がしてる。自信は、まだないんだけどね」
「ごめんね」
震える声で、朝香が言った。
「私、何もできなかった。稲城さんが酷い目に遭っていたのに、見て見ぬふりして。自分の身を守るのでいっぱいいっぱいで。本当に、ごめん。許してほしいわけじゃないんだけど、でも、ちゃんと謝りたかった」
とめどなく溢れる涙と鼻水をそのままに、朝香は夕実に対して深く頭を下げた。そんな朝香に夕実は「そんなこと、しなくていい」と声をかけて、ティッシュを差し出した。朝香はそれを何枚も受け取ると、ズビズビと音を立てて鼻をかんだ。
「橋本さんが謝ることは何もないよ。橋本さんだって苦しんでたことは、よく知ってたから。それに、私たちは『凪』を越えられたでしょう。それ以上のことって、きっともうないんだよ」
夕実が意志をもって伝えたその言葉に、朝香は心の中で膿みきっていた傷が緩やかにほどけていくような感覚に全身が包まれた。
しゃくりあげる朝香の隣に腰をおろした小夜が、そっと肩を抱いた。
「そうねぇ。『一軍』だの『三軍』だのいってるって時点で、いみじくも学校が『安全ではない場所』ってことを証明してるよね。あれでしょ? 『傷つきたくないから傷つける、嗤われたくないから嗤う』的な。あー、なんか高尾山のさる園を思い出しちゃった。あ、でもそれはお猿さんに失礼か」
「小夜さん。もしかしなくても、『いみじくも』って使ってみたかったんですね」
蒼斗が突っ込むと、小夜は「あたり」と笑った。
その直後、朝香のぐしゃぐしゃの泣き顔に、晴也が「誰であろうと、泣き顔より笑顔のほうがまだマシに見える論」を展開しはじめたものだから、すかさず暁子が異を唱えた。
「あのね晴也くん。涙の一滴はこころのかけらなの。意味のない涙なんてないのよ」
「確かに。涙にはロイシン-エンケファリンやACTH、それにプロラクチンが含有されている……」
「そういうことじゃないわよ」
「晴也、あまり理屈っぽいとモテないよー」
楓子の切れ味鋭い指摘に、その場は笑いに包まれた。夕実も楽しそうに笑い声をあげている。朝香もつられて、涙の跡で真っ黒になった顔をくしゃくしゃにして笑った。