駅前ロータリーに大きな笹が飾られた。以前は市の事業の一環で設置されていたそうだが、「凪」以後は有志のボランティアたちが遠縁などを頼って、立派な笹を入手しているらしかった。
ボランティアが準備したのは笹だけではない。折り紙を縦長に四等分した色とりどりの短冊が、「ご自由にどうぞ」のメッセージを添えられてサインペンとともに置かれていた。
「おっ」
買い出しの帰り、それに目を留めた朝香が、左手に提げたトートバッグへ短冊を鷲掴みにして突っ込んだ。
「朝香、そんなにもらっちゃうの?」
「うん。みんなの分もいるかなって思うから」
「それにしたって、二十枚はある気がするよ」
「私は、少なくとも十枚は書く」
「え、欲深いなー」
「『夢が多い』と言ってくれたまえ」
朝香と夕実は、声をあわせてころころ笑った。
二人は気がついていなかった。すでに笹に飾り付けられていた「リレーのせんしゅになれますように」「リョウタくんとずっと一緒にいられますように」「家族が笑顔でいられますように」といった短冊のなかに、「真樹境界は滅べ」と殴り書きされた一枚が紛れていたことに。
カフェ「しえる」の店内にBGMをかけたらどうかと提案したのは朝香だった。蒼斗はじめメンバーは「そういわれれば」と、それを喜んで受け入れた。
「やっぱりカフェだから、落ち着いたものがいいんじゃないかな。クラシックとかジャズとか」という夕実に「イージーリスニングに限る。ヘンニー・マンシーニかポール・モーリア」と晴也が主張し、「『まじかる☆ぱぴぺぽプリンセス』のオープニングテーマにしようよ! それならみんなで踊れるから。私、『ぱぴぺぽルッコラ』の技だって出せるし!」と楓子が大好きなアニメDVDの主題歌を熱烈に推薦し(当然ながら楓子以外は「まじかる☆ぱぴぺぽプリンセス」のオープニングテーマで踊ることはできない)、「私はハードロックかヘヴィメタルが聴きたいわ」と暁子が意外過ぎる意見を出し、小夜まで「ボサノバはどう? いかにも『カフェっぽい』じゃない」と言い出したものだから、朝香は頭を抱えた。着地点がまったく見えなかったので蒼斗に助けを求めると、彼は少し思案してからこう答えた。
「ラジオを流すのはどうでしょう。いろいろなジャンルのリクエスト曲がかかるし、番組によっては大喜利の投稿コーナーなどがあったりもするから、面白いと思うんです」
「でも、それはラジオを買うってこと?」
小夜が現金出納帳をぱらぱらめくりながら首を傾げる。
「店内にまんべんなく聞こえるクオリティのラジオって、安い買い物ではないよね。今月もたぶん、収支はカツカツだからなぁ」
「全く問題ない」
即座に答えたのは、晴也だった。
「ラジオなら俺の家に眠ってる。自宅で周波数を合わせてから、ここに持ってくればいい。昔、研究室で使用していたものだから品質は保証する」
「ぜひお願いしたいけれど、お言葉に甘えてしまっていいの?」
暁子の問いかけに、晴也はゆったりと首肯した。
「晴也、それって、それって、『ぱぱぷぷシンフォニー』は聴ける?」
楓子は、なによりもその点が心配なようだ。晴也は「そうだな……」としばし黙ってから、空中にペンを書くような仕草をした。
「リクエストを出せば、かかるかもしれない」
楓子の表情が、ぱあっと明るくなった。
「凪」のあと、インターネットをはじめ世界中のあらゆる通信手段が機能を停止してからというもの、ラジオは情報を得る数少ない手段として、「凪」以前よりも人々に親まれるようになった。
しかし放送局はたったひとつで、そのうえ周波数も安定しないどころか日々変わるため、起床したらまずダイヤルをじりじりと動かすのが多くのリスナーの日課となっている。
一日の放送は日が暮れると終わり、夜明けとともに始まる。深夜ラジオという遊び場が、かつてたくさんの「眠れない。眠りたい。でも眠れない」と苦悩する人々を真剣にふざけ倒しつつ強固に支えていたことは、徐々に忘れられつつある。
夕焼けを見送り終えると、ラジオからはノイズ音しか流れなくなる。それすらもだんだん小さくなっていき、日付が変わる頃には無音となる。
晴也は川沿いにある平屋の一軒家で一人暮らしをしている。「凪」のあとに多数の空き家ができてしまったことから、「公共の福祉に反しない限り」、無償での入居が認められるようになった。「公共の福祉」の基準が、時の為政者や既得権益層によって恣意的に変質させられてきた事実は、歴史が証明している。
しかしながら、今はもう「凪」の後。「凪」を越えた人々にとっての「公共の福祉」は、「各々ができることを少しずつ差し出し合う」ことと「各々の幸福追求について他者からの望まない介入はしない」という価値観を両立することが可能となった。誰かを故意に傷つけたり謀略によって貶めたり、誹謗中傷を正当化するために被害者面をするような人は、もう存在しない。
みんな、「碑」になったのだから。
帰宅してすぐに、晴也はクローゼットの奥にしまったままだったスーツケースを取り出した。キャスター部分に錆があったのでフローリングの床で転がすと、きぃきぃ鳴いた。窓辺のダイニングテーブルに置いて、鍵を開ける。暗証番号ならもちろん覚えている。忘れるはずがない。「あの日」の日付に設定しているのだから。
スーツケースの中には、研究に使用していた電子顕微鏡やカバーグラスの入った紙箱などの実験用器具、愛用していたリングノートやルーズリーフの束が整然と詰められている。その中からダイヤル式のラジオを見つけ、コンセントを繋いで電源を入れた。
ざざ、ざざ、とノイズがきこえてくる。周波数を合わせようとした指が、ぴたりと止まった。ラジオを両腕で包むようにして、目を閉じる。規則的なノイズが、晴也の脳裏に過日のある風景を蘇らせた。
猛烈な陽光に照らされた砂浜へ素足を踏み入れたきみは、あまりの熱さに驚いて目をぱちくりさせていた。俺は心配になって、大丈夫かと手を伸べた。するときみは、いたずらっぽく笑ってその手を強く引っ張った。砂に足を取られてバランスを取りきれなかった俺は、背中から砂浜へと倒れた。
「うわ、あっちぃ!」
背中が熱砂まみれになった俺を見て、きみは「ねー、ほんとあっちぃね」と嬉しそうに笑った。
ふたりで日陰に避難しようと、かけっこをした。いつだって負けず嫌いだったきみは、そのときだってもちろん勝った。汗と砂にまみれてその場に座り込んだ俺の背中を、きみはアイロンをきっちりかけた白いハンカチでそっと撫でてくれた。
「汚れちゃうよ」
俺はそう言ったけれど、きみは「汚れない」と答えた。
「どうして」
「だってこうすれば、向こうに持っていられるから」
それからのふたりの間に、言葉は要らなかった。絶え間なく寄せては返す波音のように、永遠に続くのではないかとさえ思えた。海をなぞってきた潮風も、ふたりと遊んだ。きみとの時間は、こうしてずっと続くのだ。終わりが来るなんて、そんなことあるわけがない。あっていいわけがない。
昼間はあんなに厳しく照りつけていた太陽が西の空へと傾いて、水平線に去っていこうとする。落暉がせせら笑っているような気がして、俺は強くかぶりを振った。
「楽しいな」
きみが隣でつぶやく。波音に合わせてゆったり揺らしていた肩を、俺の腕にぴたりと寄せて。もうそのとき、俺は落涙を止めることができなかった。
——ねぇ、この声は、聴こえてはいけないの? 聴こえてしまったら、もう一緒に居られないの? 私、そんなの嫌だよ。晴也に「おはよう」も「おやすみ」も言えなくなるなんて、そんなの嫌。明日も明後日もその先もずっと、私は晴也が弾くピアノで「ムーン・リバー」を歌うの。たまに鍵盤をミスタッチしても、晴也はポーカーフェイスが上手いから、周りのみんなはあまり気づかない。でも、私にはわかっちゃうから、そういうとき私は決して晴也と目を合わせないんだ。
まるで、ふたりだけの秘密が増えたみたいで。だから、それだって嬉しかったんだよ。ねぇ、晴也。お願いだから、ずっと隣にいて。
「……うん。もちろんだよ。……ああ……、そうか、もうすぐ七夕だね……」
ラジオから漏れ続けるノイズが、徐々に小さくなっていく。日没から小一時間を経過し、明るさの残滓が消え失せても、晴也はラジオを抱きしめ、窓辺でうっとりとした表情を浮かべ続けていた。