夕実発案の新作デザートは、夏みかんのジュレに上白糖ではなくはちみつで甘みを加えることで、ようやく納得のいく味に仕上がった。
「ジュレがさっぱりしてて、下のヨーグルトムースとのバランスも最高。夕実ちゃん、今年の夏はこれでいこう!」
小夜がウインクする。夕実は、完成品の第一号をトレーに載せて階段を軽やかに上がった。
「オーブ」のスペースでは、提出期限の迫った書類作成のため蒼斗が机に向かっていた。珍しく険しい表情で万年筆を走らせる蒼斗に、夕実がそっと声をかけた。
「あまり根を詰めると、体に毒ですよ。甘いもの食べて、ちゃんと休んでください」
蒼斗は顔をあげると、すぐににこりとして「ありがとうございます」と言って、デザートにスプーンをさし入れた。
「このオレンジ色、見るだけで元気が出そうです」
ジュレとムースとを一口に食べると、蒼斗はうんうん、と何度も頷いた。
「食べたら、ほんとに元気になりました」
ところがその言葉を聞いた夕実は、トレーを胸もとに抱き、沈んだ声色でぽつりとこぼした。
「そういうの、ちょっと」
「ん?」
「なんていうか、寂しいかもです」
夕実は、蒼斗の握る万年筆を見つめながら、おずおずと言葉を繋いだ。
「蒼斗さんは、いつも私たちの前ではにこにこしてて。誰かが食器を割ってしまったり計算ミスをしてしまったりしても、怒った顔を見たことがありません。いつでも『シエル』の支柱として、みんなの気持ちの拠りどころになってくれていること、感謝してます。私だけじゃないです。他のみんなだって、きっとそう」
蒼斗は、夕実の話を丁寧に受け止めようと思い、いつもみんなで囲んでいるテーブルの対面に移動した。
「でも、だから、その。ときどき、寂しくなるんです。本当は蒼斗さんにだって、泣いたり怒鳴ったりしたい時があるはずなのに。そういうところは、私たちには全然、見せてくれないから」
「夕実さん」
「私たちのこと、結局は信じてくれていないのかなって。そう思っちゃうんです」
言い終えたとたん、目にうっすらと涙を浮かべた夕実に、蒼斗は「紅茶を淹れましょう。ルフナがいいかな」と立ち上がった。
やかんに水を入れてコンロにかけ、茶葉が保管された密閉容器を戸棚から取り出す。手際よく支度を進める蒼斗の背中を、夕実はぼんやり見つめていた。
「紅茶の茶葉はね、光に弱いんです。直射日光はもちろん、電灯の光でも劣化が始まってしまう。明るい場所が常に、誰にとっても心地よいというわけではないんですね」
湯が注がれると、ポットから心地よい香りが立った。
「ルフナはミルクティーがおすすめですが、どうしますか」
「紅茶を飲むときは、いつもストレートです」
「でしたね。渋みが少なくてコクが強いルフナは、一般的にはミルクと砂糖を多めに入れたミルクティーが好まれます。ですが、それはあくまで好みなので、『こうあらねばならない』ということではありません」
夕実は、目の前に置かれたマグカップの持ち手をゆっくり握った。
「誰かに『こうあってほしい』と期待するのと、『なんでこうじゃないんだろう』と不安になるのとは、独りよがりという点で似ていると思いませんか」
ルフナをそっとすする夕実。その対面に腰掛けた蒼斗は、返答を静かに待った。
「……そうかも、しれません」
「僕がみんなを信じていないなんてことは、決してない。それは、断言できます」
蒼斗の表情が一瞬、冷たくこわばったように見えた。驚いた夕実が目をしばたたかせると、目の前の蒼斗はいつも通り、穏やかな笑みをたたえていた。
「だから、安心してください」
「……ごめんなさい」
夕実はぺこりと会釈すると、早足で一階に戻っていった。
蒼斗が壁掛け時計を見ると、午後六時を過ぎていた。晴也の帰りが遅い。机の上には、今日のうちに作成しなければならない書類が放置されている。蒼斗は、小さくため息をついた。
今年の七夕は見事に晴れたので、天の川が朝香の目にもはっきりと確認できた。これなら、織姫と彦星も再会しやすいに違いない。そんなことを考えたりする。
「しえる」にボランティアとして関わるようになって、三ヶ月が経つ。カフェ営業の手伝いは新しく覚えることが山積みで大変なときもあるが、何にも代えがたい充実感を朝香は得ていた。夕実と再会できたことはもちろん、みんなと過ごす「シエル」は、朝香にとって大切な居場所になっていた。
場の空気に細心の注意を払ったり、相手の表情をいちいち気にしたり、期待される反応通りに表情筋を動かす必要はない。自分が思うことを自分の言葉で表現することに、なんの不安もない。朝香の心はいつの間にか、元気を取り戻しつつあった。
あけぼの公園の「遊具エリア」で好きなだけはしゃいで、疲れたら「はらっぱエリア」の芝生の上にごろんと横になり、空を流れる雲を見てぼーっとするだけで楽しかったあの頃を、最近よく思い出す。
夜風の心地よさに、まっすぐ帰宅するのがもったいないと思った朝香は、河川敷を抜けて遠回りすることにした。時折通り過ぎる自動車のヘッドライトが、夜の街をパズルのピース片のように浮かび上がらせる。その表情は昼間とはまるで違って、静かというより、どこか冷淡に見えた。
土手にコンクリートの階段を見つけ、転ばないよう慎重に一段ずつ下っていく。河川敷にたくさんの生物が棲息していることを、普段の生活で意識することはあまりない。虫たちの立てる心地よい音、水鳥たちの鳴き声、夜風にしゃらしゃら揺れるススキの群生。これはなかなかの耳福だ。
朝香は嬉しくなって、天の川のきらめきと自然のオーケストラを従えて鼻唄を歌った。リズムに乗せて草の上を歩けば、そこはもう朝香のステージになった。
じゆう、と声に出してみる。じゆう、の意味に心を寄せる。誰もが求めるけれど、手にすれば誰もが寂しくなる、自由。ほかにそんなものがあるだろうか。
朝香の視界を導くように、自動車のヘッドライトが何度か河川敷を照らした。その光が、たまさかに人影をとらえた。川面に向かってまっすぐ立っているその人物は、石像のように微動だにしていない。
おそるおそる接近を試みた朝香は、その相貌を認めたとたん「あっ」と声をあげてしまった。
「晴也くん、こんなところで何してるの?」
宵闇に溶けたような瞳をじっと向けられて、朝香は一瞬ひるんだ。こんな表情の晴也を、朝香はこれまで見たことがなかった。現実とのチューニングが不調であるというより、彼自身の意志によって現実を認識することを拒絶している、そんな風に感じられたからだ。
考えるより先に、朝香は晴也に駆け寄っていた。
「夏だからって、こんなところにぼーっと突っ立ってたら風邪ひくよ」
案の定、晴也から応答はない。朝香はなるべく深刻になりすぎないよう、つとめて明るく言葉を繋げた。
「天の川、こんなにはっきり見たのなんて何年ぶりだろう。もしかしたら、夜空をしっかり眺めること自体、もうずいぶんしてなかったのかも」
朝香は、晴也の言葉を待った。急かすでもなく、求めるでもなく、ただ待った。晴也が一向に座ろうとしないので、朝香も横に並んで立ち続けた。
「私、蚊に刺されやすいんだよね。虫除けスプレーしても、奴らは貪欲に刺してくるんだよなぁ。O型が刺されやすいって、あれ本当なのかな」
「待つこと」とは、相手を思いやるだとか、信じるだとかにとても近いことだ。待つことで生まれる気持ちは、きっと柔らかくてまんまるい。
「流れ星は、さすがに見えないのかなー」
しばらく、朝香は晴也のとなりで夜空を見上げていた。
あまりにも星々が美しい夜だった。短冊に託した願いが叶うはずの夜だった。だから、晴也が朝香にあの子の幻影を重ねるのも、無理ないことだった。
「あかね……」
「えっ?」
晴也は緩慢な動きで、自分の首を両手で絞めはじめた。
「なにするの!」
どうにかほどこうとして、朝香はとっさに晴也の手を掴んだ。だが、力で勝てるはずもない。朝香はひどく困惑した。
――この人は、なんて硬く冷たい手をしているんだろう。今までそんなこと、全然気がつかなかった。
「やめて、頼むからやめて」
「お……お願い、です……」
夜風にかき消えそうなほど掠れた声をあげた晴也は、朝香の瞳を凝視して己を首を絞め続ける。
「……殺して、ください」
朝香にはその声が、鋭い痛みを伴う純粋な祈りの言葉にしか聞こえなかった。
第九話 「ありがとう」 へ続く