山の天候はとても変化しやすい。天気予報になかった雨が降ることもしばしばだ。日没を迎えてラジオの放送が終わると、明は窓辺のランタンに火を灯した。
やがて蛾たちがふらふらと光に集まってくる。明はあごひげに触りながら口を大きく開けてあくびをした。その呑気な声に呼応するように、黒猫が明の足元へプルプルと体を震わせながら近づいてきた。
「そういや、今日は七夕か」
明は大きな手のひらで黒猫のあごの下を撫でてやる。その厚みと体温が心地よいのか、黒猫はごろごろと喉を鳴らして、体をこすりつけてきた。目を細めているので、どうやら機嫌がいいらしい。
ここに一度滞在すると、離れるときには決まって鋭く胸に刺さるようなしんどさを覚える。それでもまた訪れてしまうのは、明にとってこの場所が、故郷のような場所だからだ。この窓辺から夕焼けを見送れば、三人で懸命に紡ぎ続けたあの日々が今でも鮮明に蘇る。
人は望郷の念を生涯携えていく生き物なのだろうと、明は確信している。たとえそこに、どんなにつらい記憶がつきまとうとしても。
もし忘れることができたなら、どんなに楽になれるだろうと思う。しかし、明は決してその選択をしない。手放すことなど、とてもできない。思い出の一つひとつが、宝石みたいに煌めくせいだ。
煩悶し、懊悩し、後悔の波が迫りくる夕暮れ時には、明は決まってギターを弾く。一緒に歌ってくれる二人はもうそばにいないけれど、弦をつま弾けば届くと信じているから。
なぎさはカーペンターズの「青春の輝き」が好きで、よく明に演奏をリクエストした。窓辺で頬杖をついてウトウトしていた蒼斗も、なぎさが歌いはじめるといつも目を覚まして耳を傾けた。なぎさが手を引いて、一緒に歌うこともしばしばだった。
アルペジオを織り交ぜたギターの旋律になぎさと蒼斗の歌声が調和すると、ここはただの隠れ処ではなく、いつだって三人のライブハウスに変身した。
なぎさの歌声は不思議な力を宿していた。聴く者の心に寄り添い、癒しさえもたらす、そんな力が。
明も蒼斗も、何度その力に助けられたことだろう。もう二度と聴くことが叶わない歌声を思い出しながら、明は「イエスタデイ・ワンス・モア」を弾き始めた。
――なんて素敵な時間だったんだろう。
やがて天の川が夜空に広がると、明は星々へ願わずにはいられなかった。織姫と彦星のように、どうかあの二人に、穏やかな再会のときが訪れますように。
「明日、ここを経つよ」
それを聞いた黒猫が、応答するように「みゃお」と短く鳴く。明はカップに冷めていた紅茶を一気に飲み干すと、スン、と鼻を鳴らした。
膝から崩れ落ちた晴也の背中を、朝香は懸命に支えた。激しく咳き込む姿を直視するのは正直つらかったが、目を逸らすべきではないと思った。
少しずつ呼吸を取り戻していく晴也の背中をさすりながら、朝香はシャツ越しに確かな体温を感じていた。
生きている限り、人間はこんなにあたたかい。晴也くん、もちろんきみだって、そう。
「大丈夫だから」
朝香の言葉に、晴也は焦点の定まらない視線を向けた。それに怯むことなく、朝香は続ける。
「帰ろう」
――帰る? でも、どこに?
「帰る場所があるなら、帰ろうよ」
晴也は震える腕をゆっくりと伸ばし、朝香の頬に触れた。朝香はその想いに応えたくて、にこりと笑った。
「あかね……」
「一緒に、帰ろう」
「うん」
晴也の自宅前で、蒼斗は腕時計を見た。時刻はすでに午後八時半。家の中は真っ暗で、晴也がいる気配はない。どうしたものかと思案していると、河川敷の方角から朝香と晴也が姿を見せたものだから、蒼斗は「あっ」と声を上げた。
「晴也くん、と、朝香さん?」
「あ。蒼斗さん、こんばんは」
「こんばんは。って、そうじゃなくて」
晴也のただならぬ表情に気づいた蒼斗は、自分の言葉が彼を責めることがないよう、慎重に言葉を選んだ。
「夕飯、食べました?」
朝香ははっとして、自分の腹部に手をあてた。
「忘れてた」
空腹を自覚したとたんに、朝香の胃袋はくぅくぅ鳴りだした。
「晴也くん、台所を借りますよ」
蒼斗は、提げていたトートバッグからカットされた西瓜をちらっと見せた。晴也の家に上がった蒼斗は、しっかり冷やしたほうが美味しいからと、まず冷蔵庫の野菜室に西瓜を入れた。それから深型のフライパンに八分目まで水を注いで、手早くコンロにかけて蓋をした。
お湯が沸くまでの間に、薬味の準備をする。長ねぎや生姜の類は見当たらなかったが、シンク真上の棚からツナ缶と小袋タイプの炒りごまが見つかった。さらに粗挽き黒胡椒の瓶をテーブルに発見した蒼斗は、「お、いいね」とつぶやいた。
調度品に全く頓着のない晴也の家には、必要最低限の食器しかなかった。一人暮らしなので当然といえばそうなのだが、数が少ないぶん手入れは丁寧に行き届いていて、几帳面な晴也らしいなと、朝香は思った。
お揃いのそばちょこではなく、汁椀にココット、マグカップに入れた麺つゆでそうめんを食べる。ツナや炒りごまを加えた麺つゆに黒胡椒を散らすという食べ方も、朝香にはとても新鮮だった。
「なんか、いいですね、こういうの。美味しさが倍増してる」
朝香には、空腹を満たすためというより、元気な食べっぷりを見せることで、少しでも晴也を励ましたいという思いがあった。
蒼斗は晴也の正面に座ると、首をちょこっと傾げて瞳を覗き込むようにした。
「食べませんか?」
「……俺には」
焦燥に満ちて輝きを失った目が、蒼斗を力なく見つめ返す。
「そんな資格、ない」
「美味しいものを美味しく食べるのに、資格なんて必要ですか?」
「……俺は、奪ってしまった、から――」
そうして訥々と始まった晴也の告白に、蒼斗も朝香も、真剣に耳を傾けた。晴也の話を遮ることも促すことをしないし、評価を差しはさむようなこともしなかった。
ありのままの肯定とは、他者からの期待あるいはその名を借りた要請に応え続けることではない。「それはおかしい」「間違っている」「悪いことだ」「劣っている」といった身勝手で浅識な価値の押し付けを甘んじて受け入れることでもない。
ただ、「そうであること」や「そうであったこと」に対して、「そうなんだ」と粛々と受け止める。それ以上でもそれ以下でもない。この場にいる誰もが、あらゆる場面で「そうなんだ」へ優劣や価値基準を寄生させられる痛みを、身をもって知っていた。
だから蒼斗と朝香には、すべての告白を終えて滂沱として涙を流す晴也にどんな言葉をかけるべきか、理屈ではなく心でわかっていた。さらにその前には、沈黙が必要であるということも。
晴也と朝香と蒼斗は、壁掛け時計が秒針を進める微かな音だけを聞きながら、部屋に漂う空気を共有し続けた。そこに気まずさなどは全くなく、「ただそこに在ること」を誰からも謗られない、そんな静穏さがあった。
やがてその空気にふくよかさが満ち、蒼斗がゆっくりと口を開いた。
「ありがとう」
晴也は、その言葉を嚙みしめるようにして、ゆっくりと首肯した。
「晴也くん。僕たちに、大切なことを話してくれたんですね。確かに聞き届けました」
「うん、私も。だってちゃんと聞きたいって思ったから。もちろん、全部はわかりっこないんだけどさ。でも私、気づいたことがあるんだ」
晴也は、穏やかさを取り戻しつつある視線を朝香に向けた。
「私は、今の晴也くんしか知らない。でも、昔のことを知ったとしても、それはそれ。これはこれ。昔のせいで今が変わるとか変わらないとかっていうのは、自分の意志が決めることなんだなーって」
蒼斗が、両手を軽く合わせてぱちん、と鳴らした。
「話してたら、ますます、おなかが空きませんか?」
蒼斗が最初に用意したそうめんは、朝香がほとんど平らげていた。追加分を茹でようと席を立った蒼斗に、晴也は懸命に声を絞り出した。
「『ありがとう』は、こっちのセリフだ」
いつもの晴也らしい口調に、蒼斗はにこりと笑った。
「朝香。きみにも感謝しなくちゃならないな」
てっきり晴也が自分のことを、かつての恋人と勘違いしているのかと思っていた朝香は「え、いつ気づいたの?」と驚いたのだが、それに対して晴也は、けろりと即答した。
「あかねは、朝香みたいに食い意地の張った子じゃなかった」
「うっわ、うるせー!! 蒼斗さん、もう西瓜、テーブルに出してもいいですかっ」
Ich will bei dir sein.――私はあなたと一緒にいたい。