その少女が姿を現すと、部屋の中は水を打ったように静まりかえった。待ちわびていた信者たちから一斉に畏怖と崇拝の視線を浴びせられても、少女は全く意に介さず最奥のソファにゆったりと体を横たえる。
少女はその白い肌を人目へ晒すことに一切の躊躇いがない。腰までまっすぐ伸びた黒髪は艶やかな絹糸のようで、小さく膨らんだ乳房は白い陶器のようだ。その存在は、見る者のほとんどを魅了した。
少女は白魚のような人差し指を、ゆったりと天井に向ける。信者たちが見上げた天井には、ミケランジェロが「最後の審判」で用いた手法と同じフレスコで描かれた大樹が広がっている。それに語りかけるように、少女は気だるげに口を開いた。
「どうする?」
信者たちは、固唾を飲んで少女の言葉の続きを待った。
「みんな、相変わらずバカなんだもん。人間って、どうして変わろうとしないの?」
「真樹様」
真樹様と呼ばれた少女は、ソファの近くでかしずく壮年男性をちらりと見やった。
「これは私の愚にも付かない考えですが、申し上げます。人間がなぜ変わらないのか。それは、変われないからなのです。人間の本質とは『愚かさ』ですから」
「ふーん」
真樹は、つまらないものを見るような目で、信者たちを端から順に見た。真樹と目が合った信者は手を合わせたり深々とこうべを垂れたり、中には涙を流す者までいた。そのすべてが、真樹にはどうでもいいとしか思えなかった。
「あーあ。また『凪』、起こしちゃおうかな」
今年の夏も相当な酷暑に見舞われたが、「シエル」の仲間たちは日々お互いに声をかけあい、元気に過ごすことができた。夕実の新作「夏みかんジュレ&ヨーグルトムース」が大好評で、ランチのデザートとしてだけではなくデザート目当てに来店する客層も増えた。
利益を全く度外視した価格設定なことも手伝って、「しえる」は連日賑わい、みんなてんてこ舞いだった。暁子もまた、「忙しい、忙しい」と口癖のように言ったものの、それは充実の証でもあった。
学校の夏休み期間には、制服姿のグループが来店することもよくあった。彼ら彼女らは、開店から閉店まで飲み物一杯の注文で居座ることもしばしばだった。確かに、「居場所の提供」という趣旨に照らせば全く問題はない。だが、暁子からすれば好ましい光景には見えなかった。
あるとき、涼と飲み物を求めて高齢女性の常連客が二名で来店したが、店内は満席だった。ホール担当の楓子が「ごめんなさい。いますぐに、ごあんないできなくて」と頭を下げると、そのうち一人の女性は「楓子ちゃん、謝らないでいいのよ。暁子さんのランチと夕実ちゃんのデザートが食べられないのは、残念だけど……」と肩を落として、店内中央の4名掛けテーブルを占拠し続ける女子中学生たちをちらっと見た。
その視線に気づいているのかいないのかは定かでないが、彼女たちは甲高い笑い声を響かせ我が物顔である。カウンターのサラリーマンにランチプレートを提供した蒼斗が、何度も頭を下げる楓子に気づいて慌ててその場へ向かった。
「黒木さん、高浜さん。暑い中、来てくださってありがとうございます。すぐにこちらはご案内できないんですが、クーラーは効いているから、どうぞ涼んでいってください。二階の『オーブ』のスペースでよければ、椅子とお飲み物をすぐに用意できます。階段を上がっていただかなければなりませんが……」
蒼斗の提案に、「あらまあ、助かるわ」と黒木さんと高浜さんは破顔した。それを見た楓子が元気よく「ごあんないします!」と手を挙げたので、その愛らしさに、ぴりぴりした空気がほんのいっとき和んだ。
小夜は眉間にしわを寄せて、現金出納帳と睨めっこをしていた。机の上には会計関係のファイルが何種類も広げられていて、そのほとんどが厳しい財務状況を物語っている。
主に「シエル」の運営は、カフェ「しえる」の売り上げだけではとても成り立たない。これまで、「シエル」創設者である堀之内明が現役時代に稼いだ貯金の切り崩しと地元住民などからの寄付金、それから自治体からの補助金で継続されてきた。そこには、蒼斗や小夜の粉骨砕身があったことは言うまでもない。
ところが、ここ数ヶ月で「シエル」の所在する市から振り込まれる補助金の額が、激減しているのである。責任者である蒼斗も、もちろんそのことは把握していた。さらにいえば、その原因についての心当たりがあった。
「だって、おかしいと思いませんか、小夜さん。嫌なものは嫌と伝えることだって、相手に対する誠意なのに」
「それはそうだけど。つまり、突っぱねたのね? 例の話」
「もちろんです。あんなものに僕たちが消費されるなんて、まっぴらですから」
「気持ちはわかるよ。でもその『気持ち』で、ここが潰れちゃったら、本末転倒じゃないの」
小夜の正論すぎる正論に、蒼斗はなにも言い返せない。小夜は深いため息をついた。
「誤解してほしくないのは、私が別にあいつらの肩を持っているわけじゃないってこと。私だって、あんなのは勘弁。でもね蒼斗くん。何を守るべきか、そのために何を選択すべきか、それは見誤っちゃだめだよ」
そこまで一息に言うと、小夜は「よく読んで」と会計関係書類の束を蒼斗に押し付け、部屋を出ていってしまった。
郵便受けに秋の「まちのマルシェ」出店者募集のチラシを見つけた夕実は、嬉々として「オーブ」に続く階段を駆け上った。
今日は金曜日なので「しえる」のカフェ営業はない。「オーブ」のスペースでは、めいめい好きなことをして穏やかな午後を謳歌していた。
「今回はどんな内容がいいかな? 前回のクッキー缶は完売だったね。好評だったのは嬉しいけど、準備が大変だったからなー」
夕実から受け取ったチラシを見た楓子は、その場でくるんと一回転した。
「ステージに出よう! みんなでダンスするの!」
楓子が「ぱぴぱぴ~ぺぽぺぽ! みんなうそつきばっかだし~うきよはそもそもうそでした~」と、「ぱぱぷぷシンフォニー」のサビ部分をのりのりで歌う。不条理をあっけらかんと歌いながら全身をくねくねする楓子の姿に、朝香が顔をひきつらせた。
「ええっ……。私、ダンスなんてできないよ。っていうかそれ、歌詞がちょっと怖い」
「『ぱぱぷぷ』、朝香は苦手なの?」
「そこじゃないってー」
朝香と楓子がじゃれていると、スペースの隅で文庫本を読んでいた晴也が顔を上げた。
「その歌詞は一部、真理を突いている」
「え、どこが?」
朝香の問いに、晴也は真顔のままこう返答した。
「『浮世はそもそも嘘』ってところ」
「うきよはそもそもうそでした~」
今度は晴也にじゃれつく楓子。特に鬱陶しがる様子もなく、晴也はほっぺたをつつかれたり耳たぶを引っ張られたりと楓子にされるがままの状態で、読書に耽っていた。
「朝香は、なにがしたい?」
夕実にきかれて、朝香はうーん、と首をひねった。
「クッキーとかお菓子類は、確かにお客さんの受けがいいよね。でも、夕実の負担が大きいのが気になる。えっと、開催日はいつだっけ?」
「10月31日。だいたい2か月後だね」
「んー、そっか。ハロウィンだ」
「ああ。そんなものもあったね。なんだっけ、都会に人が集まってが好きな相手に血のりをつけまくるイベントだっけ」
「確か、魔女とかゾンビに仮装して自分の顔を見えにくくした状態で、好き放題やらかしてもいいって日だったと思う」
「ほー。今考えると、すごい文化があったんだねぇ」
朝香と夕実のハロウィンに対する解像度の低さ(もはや誤解の域)は、「ぱぱぷぷシンフォニー」の歌詞に負けない恐ろしさがある。
「いいじゃん、仮装しよう!」
朝香が高らかに提案すると、楓子が「『かそう』って、楽しい?」ときいてきたので、すかさず「もちろん! 楓子ちゃんはついに『ぱぴぺぽルッコラ』に変身できるんだよ!」と答えた。
誰が何の仮装をするかのかについて、急きょミーティングが始まった。「オーブ」の本棚に所蔵されている書籍を参考に検討した結果、魔女・吸血鬼・ゾンビ・ぱぴぺぽルッコラが仮装の候補として挙がった(楓子いわく、「ぱぴぺぽルッコラ」は決定らしい)。
「でもこういう衣装って、どこで売ってるんだろう。きっと安くはないよね」
夕実がふと口にした疑問に、議論に参加していたメンバーは「うーん」と黙ってしまった。
「ないものは、作ればいいんじゃないかしら」
ミーティングが始まってから、暁子が初めて口を開いた。
「ここからだいぶ東のほうに、繊維問屋で有名な街があるの。そこなら、安くて質のいい素材が、たくさん手に入るわ」
「そうなんですね! でも、電車を使う距離ですか?」
この街の中心に存在する「駅」に往来する電車は、一日に数本。しかも時刻表通りに運行することはめったにない。もし乗り換えが必要だったら、その路線のダイヤとの接続も考慮しなければならない。時間の管理に気を取られて、思うような買い物ができないのではないか。朝香は懸念した。
「それもそうねぇ」
今度は、暁子が困り顔になってしまう。一同が「どうしよう」という不安に沈みかけていたそのとき、路面からクラクション音が聞こえた。
しかも、それが一度ではなく執拗に繰り返されるので、怖くなった楓子が暁子の足にぎゅっとしがみついた。暁子は、そんな楓子を優しく抱きしめ返し、「怖くないからね」と励ました。
「……ん?」
朝香と夕実は、クラクションの音が「三・三・七拍子」で鳴っていることに、ほぼ同時に気づいた。様子を見るために窓から頭を突き出した晴也は、クラクション音の発生源を確認するなり、「あ」と声を漏らした。
「シエル」の目の前には、カラフルというよりは「色彩がとっ散らかっている」と表現したくなるような、とにかく派手でゴキゲンなミニバンが停まっていた。運転席の窓が開いて、そこからあごひげ面の男性が満面の笑みでこちらに手を振ってくる。
「……明さん」
晴也が思わずこぼしたその名前を聞いて、猫のように驚いた朝香が、思わず夕実に抱きついた。
第十一話 「またね」 へ続く