第十一話 「またね」

SNSをはじめとして、インターネット上で世界中と繋がることが可能だった時代、なぜ多くの人が「孤独」に苛まれたのか。

晴也は思うのだ。孤独自体に毒性があるわけではない。恐らくその時代の人々は、孤独と付き合い、味わい、共に在る方法を忘れてしまったのだと。

しかし、それは無理もないことだ。「友達は多い方が良い」とか「ぼっちは可哀想」といった抑圧を、それこそ物心つく前から散々叩き込まれてきたのだから。

もっとも、晴也に言わせればその抑圧とは、無様な勘違いに過ぎないのだけれど。

不安と不満がハレーションを起こす寸前の社会は、自壊しかけている膿のようなものだ。そのような段階に突入した社会は、痛みから逃れるために仮想敵を次々と作り出して、都合の悪い事象や人間を排除しはじめる。

一部の強者が「正しさ」の旗を掲げ、どんな暴力にも正当化事由を与える。そうして主語が大きくなればなるほど、一人ひとりから「思考」や「葛藤」、「苦悩」する能力が失われていく。

その中でも、カルトの台頭は象徴的だ。人類が繰り返してきた過ちのひとつが、信仰の皮を被った思考停止の蔓延である。

有史以来、人間が繰り返し続けている過ちは、進歩しすぎた科学技術をもってしても、克服することはできなかった。むしろ便利なコトモノへの依存は強まるばかりで、とうに支配されていた人々が、従属に対して疑義を感じることなど、もはや不可能だったのだ。

「凪」が起こる直前の数年間、多くの人は異口同音に主張した。「自分は悪くない」と。

だって、あの著名人がそう言ってたから。
だって、有名大学の教授が書いてたことだから。
だって、それっぽい言葉でそれっぽい人がそれっぽい発信をしてるから。
だって、神様が教祖様が先生が、そうだとおっしゃっているから。
だから、自分は悪くないのだ、と。

晴也には、今でもフラッシュバックする大切な光景がある。ふたりで見送ってしまったあの日の斜陽。まるで愛の告白のように「たすけて」と遺したあかねの笑顔。

絶え間なく寄せては返す波音へ、「聴こえてはならない声」が晴也の認識する世界に滲みはじめた「あの瞬間」の、途方もない昂揚感。

あかねは絶対に晴也を許さない。あかねは晴也を強く憎んでいる。それで全く構わない。むしろそれを望んでいる。それが、晴也を忘れずにいてくれる理由になるなら。

あかねが晴也を憎むように、晴也は世界を、誰よりも自分自身を、海よりも深く憎んでいる。


ゴキゲンなミニバンは「ラッキー号」と呼んでいると聞いた朝香は、2列目席のウィンドウ付近に肘をついて「へー」とだけ答えた。

その素っ気なさを、マイペースをゆく明が気にするわけもない。なにせ、ラッキー号に乗ったみんなを線維問屋街へ連れていくという重要なミッションの最中だったのだから。

「朝香、なんかあったの?」

夕実が、明らかにゴキゲンではない朝香を心配する。朝香は「うーん」と声を出すのが精一杯だった。

確かに、勝手に期待してそれが裏切られたからといって、相手に非があるわけではないとは、朝香も頭ではわかっている。

だがしかし。だがしかしだ。

あんなに美しい夕焼けを撮影したのが、こんなヒゲ面のおっさんだったなんて。騙された気分すら覚える。もちろん、この人は何も悪くない。悪くないんだけどさ。

「蒼斗さんと小夜さんも、来ればよかったのに。この大きさなら、全員乗れると思うよ」

夕実がウィンドウを開けて、頬を撫でる風に目を細めながら言った。

「お母さんとあおと、なんか大事な話があるんだって。よくわかんないけど、お母さん、『カルマー』みたいな顔してて、なんか怖かった」

カルマーとは、世界中を虚構の膜で覆い、人々から何もかもを奪うことで支配を企む「ぱぴぺぽルッコラ」のラスボスキャラの名前だ。

「日暮里なんて、何年ぶりかしら。よく布問屋で変わり種の生地を仕入れて、あれこれ衣装を作ったものよ」

助手席の暁子は、若かりし頃の思い出を噛み締めているようだ。

「そういえば、日暮里は『日暮れの里』と書くわね。当時は忙しくて気づかなかったけれど、なかなかいい地名だわ」

高速道路に乗ると、いよいよ明はアクセルを気ままに踏み込んだ。ただ、前を見てぐいぐい進める。こういう気分と最高に相性のいい曲が、カーステレオから流れ出した。

ど直球のハードロックが車内に響く。低音パートの重厚なキレが聴く者の胸に迫り、しゃがれ気味の声で乱射される鋭利な刃のような歌詞が、聴く者をぎくりとさせる。往年の伝説的ロックバンド「social outcast & cats」のファーストにしてラストアルバムのタイトルチューン「またね」だ。

「social outcast & cats」は日本で結成されたバンドだ。ライブハウスを中心に活動し、インディーズシーンを席巻後、華々しくメジャーデビューした。

ところが、レコード会社やスポンサーなどとのしがらみの一切を嫌ったメンバーたちは、サブスクリプション配信やらタイアップやら有名ホールでの公演やらのすべてを拒否し、あっという間に世間から消えた。

リーダーのボーカル&ギターだったトールは後年、「俺たちは消されたんじゃなくて、俺たちの意志で消えることを選んだ。歌いたい歌を歌って、聴いてくれる奴らに、ほんの少しでも刺さってくれたら、それ以上何を望むんだよ」と、場末のライブハウスで語ったという。

「『social outcast & cats』、好きなの?」

暁子が明に問うと、明は豪快に頷いた。

「こいつらの音楽からは、本物の叫びを感じるんだ。衒いや下心のない、純度の高い声っていうのかな。トールのギターと歌声も唯一無二だけど、俺は特に、ベースに心を掴まれるんだよ」
「あら、そうなの」

暁子は、頬を思わず緩ませた。social outcast & cats、つまり日陰者と猫たちの遺した音楽は、今もこうして聴き継がれているのだ、と。

高速道路を首都1号上野線上野出入口で降り、日暮里駅南口のロータリーにラッキー号が到着すると、繊維街は目と鼻の先だった。年季の入った街並みは、ただ古いというよりも、レトロな味わいがあるように朝香には感じられた。

シャッターが閉まったままだったり、年単位で放置されて埃まみれだったりする店舗も散見されたが、たくましく営業を継続している店舗は、一同の目にきらきらと輝いて映った。

繊維街の魅力は、布の種類の豊富さに留まらない。ラインストーン、アクリルパーツ、ブレード、レース、チェーン、羽根モチーフ、フリンジ……。これらを自由に組み合わせる楽しみがあるし、それでいて安価なためお財布を気にせず選ぶ喜びもあった。

何よりも、売られているアイテムたちは、主に朝香・夕実・晴也に色濃く流れているであろう「中二的な血」を覚醒させるのに十分すぎた。

「ぱぴぺぽルッコラ」が作中で敵キャラに向けてまき散らす「ぱるるるるんボム」の模倣品も作れそうだったので、楓子も大満足の様子だった。

「羽に鎖なんて巻きつけたらもう、めっちゃそれっぽいじゃん」

朝香がときめきの声を上げる。

「ゴスロリワンピって、年齢制限あるのかな」

夕実は黒と白のフリルが大量についた生地を手に取って真剣に見つめている。

晴也がシリアスな表情で深紅のサテンを凝視し、徐々にくすくすと笑い出したものだから、朝香は「『愛しい人の血で染めあげた』的な設定?」と訊いた。晴也は当然、と言わんばかりにこくん、と頷いた。

一方、明と暁子は買い物には参加せず、駅前でほそぼそと営業している喫茶店で一息ついていた。明の音楽談義に、暁子があまりにも研ぎ澄まされたリアクションをするので、すっかり気を良くした明が、こんなことを言い出した。

「俺、『social outcast & cats』が今も存在してたら、ギターとして加入したいんだ。確か、トールは早くに亡くなったろ。彼の死去とともに、ほかのメンバーもみんな消息不明になってしまった。もしあのベースと共演できたら、ギター弾き冥利に尽きるんだよ」
「ベースが好きなんて、明さんはかなりの音楽通ね」

褒められると、明はますます頬を紅潮させた。

「まぁね。『social outcast & cats』のAccoよりクールなベーシストを、俺は知らない」
「ありがとう」

暁子の言葉の意味を理解するのに、さすがの明でも時間を要した。暁子がニヤッと口角を上げてみせたとき、明はかつてAccoがライブハウスでファンを挑発していたときの不敵な笑みを思い出し、「えっ?」と間の抜けた声を出した。

「え、まじで? え、ちょっと待って。そんなことって、ある?」
「あるんでしょうねぇ」

いつも「しえる」でみんなに接しているときの穏やかな笑顔に戻った暁子は、「またね」のサビをワンフレーズ、アカペラで歌った。


真樹しんじゅの不機嫌はよくあることだが、その日は少し勝手が違った。どんなに高級な菓子やアクセサリーを与えても、信者の中でお笑い芸人として活動しているコンビが巷で大流行のギャグを披露しても、不機嫌は改善どころか悪化する一方だった。

理由は至ってシンプルだ。再びの「凪」を、真樹は起こすことができなかったのである。側近の信者によれば、またあの奇跡を発現するには、新たな触媒が必要なのだそうだ。

「よくわかんない。でも、必要ならその『触媒』、さっさと用意してよ」

信者たちは、一斉に恭しくこうべを垂れた。真樹は、信者たちが供物として捧げたウサギやクマのぬいぐるみたちを、腹の虫が治まるまで殴り続けた。

第十二話 子どもたち へ続く