第十三話 蜘蛛の巣

楓子の不在に、小夜は激しく動揺した。しかし、蒼斗のただならない様子に、それはすぐに押し潰された。

蒼斗は、沈んでいく太陽を射抜かんばかりに鋭く睨んだ。

「……西へ。すべてのことは、道中で話す」


M-07に「蒼斗」という名を与えた。季節を問わず一年中見ることができる北斗七星は、全国各地で様々な方言が存在して、古来から人々に親しまれている。この青空の下、どこへ行っても輝けるように、という願いを込めた。

「なぎさ」という名は、奥多摩の山奥を隠れ処と決めたあとで、F-05が「いつか海も見てみたい」と望んだことに由来する。

空と海はずっと向かい合っているから、ぴったりじゃないか。明がそう提案すると、二人ははにかんだ顔で見つめあった。

「蒼斗」

F-05、いやなぎさが呼びかける。

「なぎさ」

蒼斗が、ぎこちなさそうにその名を呼んだ。

丸太小屋の廃屋に誰かが住みついたという噂は、徐々に地元住民に広まっていった。とはいえ、都心のように狭い場所に人口が密集している土地ではないこともあってか、三人に対して余計な干渉をする者はいなかった。

しかし決して無関心というわけではなく、丸太小屋の再生に協力してくれる住民もちらほら現れた。彼ら彼女らは外壁や梁の修繕といった力仕事に留まらず、家具や日用品を譲ってくれたり、麦茶やおむすびなどの軽食の差し入れをしてくれたりもした。

学齢期と思しき蒼斗となぎさが学校へ通っていないことや、病衣のような味気ない服を着用していることも、追及されなかった。それどころか、「うちの子どもが着なくなったから」と、おさがりの洋服を持ってきてくれる人までいた。

「ちょっと、流行のデザインじゃないかもしれないんだけどね」

奥多摩湖のほとりで売店を営む夫婦が、スーツケースに古着を詰めて持ってきてくれたこともあった。その中に水玉模様のワンピースがあったものだから、なぎさは飛び上がって喜んだ。

「嬉しい! ありがとう!」

春先に花が咲むような声に、小屋で汗を流していた誰もが心和んだ。

その後も、CDコンポと年代物の洋楽アルバム、座面の布を敷きなおせばまだまだ使える椅子、使い込んで一部のボタンにへこみこそあるが感度のいいラジオなどを次々と譲り受けるという縁に恵まれた。

あるとき、軒先に張られた蜘蛛の巣を払おうとした明に対し、なぎさが「やめてあげて」とお願いするという出来事があった。「蜘蛛、怖くないの?」と明は言ったが、なぎさは首をぶんぶん横に振った。

「雨上がりの蜘蛛の巣って、宝石を垂らしたみたいに水滴が綺麗に見えるの。それに、蜘蛛からしたら私たちこそお邪魔している立場だから、住処を壊すのは良くないと思うんだ」

明はもちろん蒼斗もなぎさも、日々汗にまみれて土埃を浴びて、懸命に小屋の再生に取り組んだ。ラボで育てられていた頃には決して見られなかった、蒼斗となぎさのいきいきとした笑顔に、明は確信した。自分の判断は間違っていなかったのだと。

ただ、カフェを開業するには煩雑な手続きや資格の取得という多くの壁が立ちはだかった。冷蔵庫や厨房、洗浄設備などの設備もゼロから整えなければならない。

しかも制度上、使用施設の着工前に取るべき手続きがあったのだが、明がそれを知った頃には、修繕現場はご近所さんたちが集う、地域のちょっとした憩いの場となっていた。それに、屋号を掲げて目立つようなことをしてしまっては、ラボに見つかるリスクが高まると、明は思い至ったのだった。

「古民家カフェ」を思い描いていたなぎさはがっかりしたが、「美味しい紅茶を飲みたい」という夢は、蒼斗が叶えてくれた。

蒼斗は町立の図書館に足しげく通い、紅茶に関する書籍をひたすら読み漁った。住民票のない蒼斗は図書を借りることはできなかったから、内容を図書館内でノートに書き写した。

明は蒼斗のリクエストに応じて、インターネット通販を利用して世界各地の茶葉を購入した。小屋に登録できる住所が存在していなかったので、商品の配送先にはお世話になっている売店の所在地を使わせてもらった。

明が通販で購入していたのは、茶葉だけではない。アコースティックギターが届いたその日から、秘密基地での暮らしはいっそう充実していった。たくさん歌い、笑い、あらゆるものを三人で分かち合った。トーストに塗るジャム、ふいに湧いてくる寂しさ、奥多摩湖に沈む夕日の美しさ。すべてが三人にとって宝物だった。

眠れない夜に、いびきをかいて爆睡している明を起こさないよう、蒼斗がラジオをつけることもあった。パーソナリティのしゃべりには、蒼斗が意味を知らない単語も多かった。けれど、こんな深夜に声を届けてくれる人がいることが、とても心強く感じられた。さらに腕利きのネタ職人たちによる大喜利コーナーはとにかくレベルが高く、蒼斗はいつも笑わされ、励まされていた。

蒼斗が真夜中にこそこそとしているのに気づいたなぎさが、「どうしたの、眠れないの?」と心配して声をかけた。蒼斗は思い切って、なぎさに深夜ラジオを聴いてもらってみた。

どんな反応を示すのかと、おそるおそる蒼斗が顔を覗き込むと、なぎさはもう堪えられない、といった様子で腹をかかえて爆笑しだした。

「やば、なにこれ、面白すぎるんだけど!」

こんな風にも笑う子なんだ。なぎさの弾けるような笑顔を見た蒼斗は驚きと同時に、喜びを伴った確かな愛おしさを感じていた。

またあるとき、「ミニバンの白はなんだか素っ気ない気がする」となぎさは言った。

「好きな色の車に乗りたい」

蒼斗も、そんなことを言い出した。

明は、二人の願うことならなんでも叶えてあげたいと思った。ミニバンを飛ばしてホームセンターで大量の塗料やスプレーを買ってきた明に、蒼斗となぎさは笑顔で抱きついた。

それから三人は、ミニバンをキャンバスにして気持ちのおもむくままに、色彩を広げていった。手足だけでなく顔もカラフルに汚しながら、そのとき、みんな本当にたくさん笑った。こういう時間はずっと続くに違いない。明はそんな錯覚すら覚えていた。

完成した派手なミニバンに、なぎさは「ラッキー号」と名前をつけた。

「ハッピーもいいけど、ラッキーのほうが楽しい感じがして、好きなんだ。乗ったらきっと、ラッキーなことが起きるよ!」

三人は「ラッキー号」で何度も、ゴキゲンなドライブに出かけた。カーステレオでは明の好きな「social outcast & cats」、なぎさの「カーペンターズ」がよくかけられたが、蒼斗のリクエストでラジオが流れることもあった。

ひたすら南下したラッキー号が湘南の海にたどり着いたとき、蒼斗もなぎさも、水平線に沈みゆく太陽にしばらく言葉をなくしていた。なぜなら、夕暮れとは、空と海とが口づけをする刹那だと気づいたから。

古民家カフェこそ実現できなかったものの、奥多摩の小さな丸太小屋は三人にとって重要な隠れ処であり、たくさんのものを分かち合う秘密基地であり、かけがえのない居場所だった。

蒼斗となぎさと明は、間違いなく家族だった。

ところが、そんな日々はあっけなく終わりを迎える。丸太小屋の近くを通りかかった観光客たちが、こぞって「なんかエモい」「しぶみすご」「こんなところに素敵な小屋がある!」など好き勝手にコメントし、ハッシュタグをつけて写真投稿SNSにアップしたことから、一般の耳目を集めてしまったのだ。

ほどなくして小屋の存在、そしてM-07とF-05の生存はラボ側にもバレることとなった。M-07とF-05以降、なかなか成功体を作り出せずにいたラボにとって、「『あれら』がまだ生存している」という情報は「世界平和の実現のため」の吉報に他ならなかった。

待ち望んだ「マジックアワー」が訪れたその日の記憶は、蒼斗の中でモノクロでしか再生されない。

なぎさは庭へ出て洗濯物を取り込んでいた。蒼斗は未開封の茶葉を探すために棚を覗き込んでいた。明はロッキングチェアにもたれて、うたた寝をしていた。

「嫌だ」

なぎさの短い悲鳴は、山を征く鳥たちの声に重なり蒼斗と明の耳に届くことはなかった。ふと強烈な違和感と胸騒ぎに襲われた蒼斗が庭へ駆けつけると、そこにはもう、「なぎさ」は存在していなかった。

ラボの研究者たちは遂に達成したのである。AIと人造人間の融合により世界を平和へ導く「完全な存在」を生みだすことを。


「凪」により世界中に建った「碑」の見た目には、わずかな個体差しかない。あくまで人体で構成されているためだ。

「碑」とは、「人間」であり続けることを拒絶されたおよそ60兆個の細胞が、変容を強いられた成れの果てである。「碑」が生命活動を維持していることは判明しているが、それを知った者が誰一人として「『碑』を人間に戻す方法」や「『碑』と意思疎通する手段」などについて研究しようとは思わなかった。

なぜなら、「碑」になった人間には、1つの共通点があったからだ。すなわち、彼ら彼女らは、「人を人とも思わない人間」であった。

「凪」を逃れた人々がそれに気づいたとき、世界のあちらこちらに「碑」が建ったことに対して、悲しみより安堵の気持ちが勝ったというのは、動かせない事実である。

残された人々は、おのずと平和を希求するようになった。その永続的な維持のために、他者との差異の承認に積極的になったことで、あらゆる諍いや争い、暴力や理不尽は激減していった。

まさに、ラボの研究者たちが理想とした世界が実現したのである。ただし、そこには一人の少女の犠牲があったことは、全く知られていない。

その「平和」は、砂上の城のごときまやかしだった。だから、あっという間に色あせていった。人間の愚かさは「凪」を越えてなお、その本質を変えることはできなかったのである。

平和的な統合を願い設立されたラボが「真樹境界」と名を変えて世界を支配はじめることが、新たな分断を生みだしているという皮肉を、しかし誰に笑うことができるだろうか。

「なんだか、妹ができたみたいで嬉しい」

真樹しんじゅは、ご満悦な様子で楓子ふうこの頭を撫でた。楓子は怯え切った表情で、恐怖のあまり涙も出せない。

「大丈夫。なにも怖くないよ。ふーこちゃんは、この私の役に立てるの。一緒に、楽しいことしよう」

第十四話 待ってるよ へ続く