最終話 夜明け

蒼斗の発した叫び声が滲ませる悲痛さに、朝香と晴也、それに夕実は胸を締め付けられ、息苦しさすら覚えた。

小夜は、残酷な現実を直視しなければならないことに気づき、膝から崩れそうになるのを懸命に堪えていた。扉を開こうと全体重を預けていた朝香は、蒼斗の方を振り返ることができなかった。

――進むしかない。引き下がることは、もうできないんだ。

甲高い軋みを上げて、鉄扉がじりじりと内側へ開いていく。もうひと息で人ひとりが通過できる幅まで広がりそうだったが、朝香はこれ以上力をかけることができなかった。

もう無理、と朝香が強く目をつむると、晴也が朝香の隣に並び、両腕で鉄扉を力強く押し込んだ。

獣の鳴き声のようにくぐもった音を立て、ようやく鉄扉は開かれた。

「遅いってば」

額に汗を浮かべた朝香が苦情を申し立てると、晴也は小さく頷いた。

「ごめん。ちょっと『飛んでた』」
「こんな時に?」
「こんな時だからこそ、かもしれない」

朝香と晴也が、にやっと笑いあう。夕実は、その場にうずくまってしまった小夜の肩を抱いて、「行きましょう」と声をかけた。

「小夜さん。今ここで、目を逸らしたらだめです。楓子ちゃんは、誰よりもお母さんを待っているんだから」
「うん……わかってる。わかってるよ、だけど……」

扉の先へ足を踏み入れるのを躊躇う小夜の眼前を、蒼斗が淀みのない歩調で進んでいく。扉の向こうは真っ暗で、小夜の感情を映しているかのようだった。

「蒼斗くん」

小夜が呼びかけると、蒼斗はちらりとこちらに視線を送った。

「『みんな』で帰るんだ」

その言葉に小夜は、両手で自分の頬を思い切り叩いて、「当たり前っ!」と勢いよく立ち上がった。夕実もその後を追って扉を駆け抜け、その背中に朝香が続く。しんがりを務めた晴也は、鉄扉を開け放しておくために、みんなでラッキー号に乗り買い出しへ出かけたとき見つけた、十字架モチーフのアクセサリーを蝶番に挟み込んだ。

暗く冷たい道をどれくらい進んだだろうか。薄気味悪さと不安に押し潰されそうになりながらも、一同は蒼斗の歩みを信じて進むことをやめなかった。

やがて、目指す方向から光が差しているのが見えた。

「なんかこう、門番とか雑魚キャラ的なのって、いないもんなのかな」

朝香は茶化したような口ぶりだが、明らかに違和感を覚えていた。それは夕実も同じだったようだ。

「セキュリティ、こんなガバガバで大丈夫なのかなぁ」

それに対して、晴也が険しい表情で見解を述べた。

「あくまで可能性の話だけど、もしかしたら真樹しんじゅとやらが、やらかしたのかもしれない」
「え」

何を? と朝香が問うより早く、一同はだだっ広い空間へ辿りついた。どこからかかっているのかは不明だったが、「ジムノペディ第1番」が流れている。一同の視界に飛び込んできたのは、壁面や床面にへばりつくように建っている、いくつもの「碑」だった。

まだ「碑」と化してから時間が浅いためか、脈打つようにぴくぴくと一部が動くものもあった。組成は人間と同じなので、「碑」の見た目は赤、白、ピンク、そこに空と海を象徴する青が入り混じったマーブル模様をしている。

その高さは素となった人間にほぼ等しいが、「人間で在り続けることを拒絶され」た存在であるため、姿形の保持は叶わなかった。「碑」のほとんどは、絶望した人間が光を求めて必死に手を伸べたときの腕の形によく似ている。

それは、ともすれば「碑」と化していった人々の、切なる願いなのかもしれなかった。

「なに、どういうこと?」

夕実が恐怖で上ずった声を上げる。朝香は歯を食いしばり、「碑」たちから視線を離せなくなっている。この惨状の元凶を言い当てた晴也は、しかしあまりの光景に耐えきれなかったようで、幻へと意識を逃避させた。

小夜の呼吸が止まりそうになったのは、その空間の奥から、楓子が姿を見せたからだった。

「楓子!!」

だが、その声に楓子からのいつものように元気な返事はない。蒼斗は、楓子の背後で涅槃像のように全裸で体を横たえて、こちらを揶揄するような笑みを浮かべている「彼女」へ、これ以上ない憎しみに満ちた視線を刺した。

「ようこそ」

共に生まれ共に育ち、たくさんの痛みと喜びを分かち合った「彼女」は、もういない。

「やだなぁ、とっても怖い顔して」

真樹が紡ぐその声は、蒼斗の奥底に厳然と在る怒りの奔流を呼び起こしてしまうのだった。

「ふーこは、すごく優秀なの。私もびっくりしちゃった。ふーこのおかげで、私、やっと自由になれるんだよ。要らないものは、みーんな、ああしちゃうんだから」

真樹は、空間に林立する「碑」たちを侮蔑するように笑った。

「ね、ふーこ」

小夜の目前までふらふら歩いてきた楓子だったが、その目はほとんど死んだ魚のそれだった。生気を失った顔色は、蒼白というより土気色である。

小夜が声にならない悲鳴を上げて、小さな体を抱きしめた。だが、触れた手から容赦なく伝わってくるあまりの冷たさに、小夜は脇目も振らず、何度も楓子の背中や頬をさすった。

「楓子、楓子、楓子」
「感動の再会、とか?」

真樹は舞い踊るようにすらりと身を起こし、憔悴しきった小夜に微笑みかける。

「でもね、ふーこはもう、私のものなの」

楓子の「心」——人格を成すあらゆる記憶や感覚を、真樹は浸食していた。真樹にとって、楓子の持つ成長の可能性と未来を指向する力のすべては、新たなる「凪」を起こすための触媒である。その力のすべてを我が物にするため、真樹は、意識を楓子と連結させてしまった。

真樹境界の、いやラボの研究者たちの誰も想定することができなかった、真樹の暴走。それは、本来なら奇跡的現象であるべき「凪」を意図的に起こすという、純然たる悪意に基づく、かつてない厄災の発生を意味した。

「愚か者の振る舞いだな」

そう断じたのは晴也である。晴也は、傍に建っていたまだ体温の残る「碑」に爪を立てた。

「繰り返すつもりか、性懲りもなく。『完全な存在』とやらが?」

爪を少しずつ深く食い込ませて、自分とそう変わらない体温を指でまさぐる晴也は、徐々に恍惚とした表情へと堕ちていく。

「所詮、人間が作ったもの同士を混ぜたところで、不完全と不完全とが絡みつくだけだ。人造人間とAI、この2つが決して越えられない壁に、どうして誰も気がつかないんだ?」

朝香は「碑」を痛めつける晴也の姿が、自傷行為にしか見えなかった。「碑」に深く指を挿し入れることでじわじわと伝う生温かさに、理性を放棄しつつある晴也の背中を、朝香は確かな意志を持って抱きしめた。

「やめて」
「……朝香。不思議だと思わないか? どうして、人殺しの俺が『碑』にならなかったのか」

晴也はなおも、「碑」への侵食をやめない。掠れた笑い声をあげて、指先にまとわりつく細胞の感触を味わってさえいるのだ。

「そんなことしないで。晴也くんは、そんなことする人じゃない」

朝香の凛とした声は、「碑」にも届いているのだろうか。晴也の行為に抵抗するように、その「碑」は一度だけ、ぶるっと震えた。

「何よ、『決して越えられない壁』って」

真樹が不愉快極まりない様子で晴也を睨みつける。だが、そんなもので晴也が現実に認識を滞留させることはない。

「人間が不完全であるがゆえに人間であることは、異論ないだろ」

晴也は、背中に朝香のぬくもりを感じながら、その安らぎに目を細めた。まるで懐かしい思い出話でもするような口調で、晴也は続ける。

「だったら、その不完全な人間が『人間を造った』ところで、不完全を克服するには至らない。そうなれば――」

晴也は「碑」から指を躊躇なく引き抜き、血液に濡れた人差し指を蒼斗に向けた。蒼斗はその意味を、精悍な目つきで極めて怜悧冷徹に会得した。

「……わかってる」

蒼斗にとって、晴也の言わんとする「壁」とは己の心身、ひいてはレゾンデートルを引き裂かれんばかりの痛みを伴う事実だ。しかもそれを「彼女」に伝えるのは、あまりにも残酷である。

しかし、自分こそが今ここで「彼女」に伝えなければ、もう真樹を止めることはできない。

蒼斗は、真樹の両目をまっすぐにとらえ、宛転と宣告した。

「科学技術がこの先、どんなに進化したところで――」

胸裡に秘め続けてきたどす黒い感情を、真樹の脳天に突き刺すように解き放つ。

「AIには、過去と現状の追認しかできない」

真樹は何も反論をしない。いや、できない。茫然とした表情で瞬きをするばかりである。どうやら、継ぐべき二の句の検索に失敗しているようだった。

それはまるで、コンピューターの画面がブルースクリーンに化けて無数のエラーコードが延々と表示されるような、唐突で不可逆な現象だった。

真樹は「え? え?」と混乱し、その場で固まってしまう。

蒼斗はそんな真樹に対し、一片の迷いもなく、とどめを刺した。

「『完全』を求め続ける限り、誰からも忘れ去られる。もちろん僕も、それは例外じゃない」
「――え?」
「なぎさ。僕は、きみを忘れるよ」

真樹の表情から、まったく余裕が消えた。それどころか、人形のように整っていたはずの顔は恐怖と鬼胎と疑懼に歪み、挙動は滑らかさを失って、錆びたブリキ人形のようにぎこちなく崩れ落ちた。

「……違う、私は、ただ……」

蒼斗は真樹の弱々しい叫びを無視して、楓子を介抱し続ける小夜に駆け寄った。

「楓子ちゃん。戻っておいで」

蒼斗が、楓子の手を握った。

「小夜さん。みんな。ごめんなさい。僕には、こういう形でしか恩返しができないみたいなんです」

蒼斗のその言葉の意味を最初に理解したのは、夕実だった。

――あなたはいっつも、そうやって一人で何もかもを背負ってしまう。まただよ、何度目なの? いい加減にしてほしい。ふざけないでほしい。その決断が本気なら、それこそ私は、そんなもの絶対に認めない。分けてよ。教えてよ。あなたがずっと孤独に抱えてきた痛みを。ちょっとなら、私にだって背負えるよ。私は、そんなに弱くない。むしろ強くなれた。それは、間違いなく、蒼斗さん。あなたのせいなんだからね。

蒼斗は、楓子の心身を深く浸食しつつある真樹の意識を、自分の身に逃がすことで楓子の心を解放しようとしているのだ。蒼斗から、みるみる表情が失われていく。それと引き換えに、楓子の顔は少しずつ血色を取り戻しつつあった。

「お母さん……?」

小夜は、楓子を今度こそ強く抱きしめた。小さな体は、懸命に生きる力を取り戻そうと闘っている。抱きしめたなら、抱きしめ返してくる。甘えん坊の楓子は、いつものように小夜にぎゅっと抱きついた。

小夜は、子どもみたいに声をあげて泣いた。楓子の柔らかい髪の毛がぐしゃぐしゃになっても、頭を撫で続けた。

「お母さん、泣き虫」
「うん。そうだよ。よく知ってるでしょ」

朝香がほっと胸をなでおろしたのも束の間、楓子の復活を見届けた蒼斗が、その場で静かにくずおれた。

「えっ?」
「蒼斗さんっ」

夕実が、冷たさを増していく蒼斗の頬を両手で包む。

「こんなの、いやです。 『みんな』で帰るんでしょう、『シエル』に。蒼斗さんのいない『シエル』なんて、私は絶対にいや。蒼斗さんのいない場所なんて、世界中どこだっていや。いやだよ、蒼斗さん!」

夕実の涙が、ぽたぽたと蒼斗の頬を打つ。蒼斗は残る力を振り絞って、にこりと笑った。

「……僕たちは、ただ、家族がほしかったんです」

真樹――いやなぎさと意識が繋がっている蒼斗は、「二人」の願いを伝えようと、命を賭して言葉を紡いだ。

「これからも、みんながあの場所で笑ってくれるなら……。そこには、僕たちがいると、思ってほしいんです」

夕実は、己の意識を手放していく蒼斗の肩をつかんで、強く揺さぶった。

「そういうの、ほんと無理です。やめてください。全然嬉しくない。嬉しくないったら。置いていかないでよ、蒼斗さん!!」

夕実の痛切な告白を、最後まで聞き届けられたのだろうか。静かにまぶたを閉じた蒼斗は、夕実の腕の中で、みんなのよく知る、いつもの穏やかな微笑みを浮かべていた。

その場の一同は、沈痛な面持ちで言葉を失ったまま立ち尽くしていた。

「『みんな』で帰る」という言葉が、無常に雲散霧消していく。

もうだめだと諦めかけたそのとき、あどけない声が、重苦しい空気をぶっ飛ばすべく最強かつ最高の技を炸裂させた。

「ぱるるるるんボム!!」

すっかり元気を取り戻した楓子が、伝説のマジカルプリンセス・ぱぴぺぽルッコラとして降臨したのだ。朝香と小夜は呆気にとられたが、晴也は腕組みしながら冷静に状況を分析をした。

「あくまで可能性の話だけど、一時的に真樹と強制的に繋がったことで、楓子の中で、何かが覚醒したのかもしれない」
「はい?」

朝香が間の抜けた声を出すその間にも、ぱぴぺぽルッコラは臥す蒼斗へ「ぱるるるるんビーム!」「ぱるるるるんクラッシュ!」「ぱるるるるんパンチ!」と必殺技を連発している。別段、楓子は変身したわけでもなければ、手から光やら音やらが出ているわけでもない(それどころか「ぱるるるるんパンチ」に至っては、単に蒼斗に拳を浴びせているだけだ)。

ただ、晴也の推察は概ね当たっていたようだった。「ぱぴぺぽルッコラ」は、蒼斗の心身に侵入して自我を食らおうとしていた真樹の意識を、見事に退散させてみせたのだ。歴史的大勝利を収めた楓子は、アニメDVDの鑑賞で鍛え抜いたステップを器用に踏んで、華麗にポーズを決めた。

「いつも勝つのはこの私! なぜなら私、かわいいし! ぱぴぺぽルッコラ、ここに参上!」

夕実は、うっすらと目を覚ました蒼斗の体を抱きかかえて、とびきりの笑顔を見せた。

「ありがとう、ぱぴぺぽルッコラ!」

意識を取り戻した蒼斗は、楓子から大粒の真珠のような種を受け取った。

「はい、これ。大切なものでしょ」

それは、真樹がいたはずの場所に落ちていた。この種は、なぎさの遺した心の欠片なのだと蒼斗が告げると、それを疑う者は誰もいなかった。

どうやら少しの間、眠ってしまっていたらしい。ふと顔をあげると、暁子が明のアコースティックギターで、亡きパートナーを思い出しながら「またね」を弾いていた。

「もうすぐ、夜明けね」

明はラッキー号のカーラジオをオンにして、ラジオのチューニングを開始した。日々変動する、気まぐれな周波数。

「おっ」

この日の周波数は、77.7MHz。
奥多摩湖を支配していた宵闇がふわりと溶け始め、曙光に空を譲るのが見えた。

明が「みんな」の姿を確認すると、腕を大きく振って「おおーい! 今日のモーニングナンバーは、『ぱぱぷぷシンフォニー』だってさ! アニソンかな?」と大声で伝えた。

念願のリクエスト曲がラジオから流れてきたので、小夜に抱っこされてすたすや眠る楓子は、寝言で「ぱるるるるん……」と言った。

「ただいま」

蒼斗が、どこか照れたような表情で明にそう言うと、明は力強く頷いた。

「さあ。みんなで、帰ろう」

明が、ゴキゲンでラッキー号を走らせる。その車内で夕実は、蒼斗から真珠の種を受け取った。

「いいんですか?」
「はい。『シエル』の庭に埋めましょう。僕はこれを、夕実さんと一緒に育てたいです」

夕実は心臓が口から飛び出しそうになって、本当に湯気があがるのではないかというくらい赤面した。その様子を、3列目席の朝香と晴也はにやにやと眺めていた。ちゃっかりこっそり、手を繋ぎながら。

ラッキー号は、夜明けを目指して東へひた走る。どこまでも進んで行けると思えるのは、帰りたいと思える場所に、待っていてくれる人がいるからだ。

「そういえば、なんで明さんは急にここへ戻ってきたんですか?」

ある日の「しえる」の閉店後、床を掃いていた朝香が何気なく質問をした。

明は「あ、そうだった」と、古びたリュックサックから一冊の写真集を取り出した。表紙には「空の芸術シリーズ 続・夕焼け編」と書かれている。

「前作が思わぬヒットだったから、新刊を出すことになってさ。サイン会を『しえる』で開きたいなーって思ってて、そのお願いをしに来たんだった。今回も、我ながらいい写真が撮れたんだよ」

間髪を入れず、現金出納帳を鬼の形相めくっていた小夜が「印税は全額、『シエル』に入れてくださいね」と命じた。明がノーと言えるはずもなく、その結果、「シエル」の財務状況が劇的に改善するのは、そう遠くない未来のことである。

小さな庭の、陽光のよく当たる場所を選んで埋められた種が芽を出すのは、いつになるだろうか。やがて花が咲いたら、どんな色や形をしているだろうか。

その日を待ちわびて過ごす穏やかな日々に、大切な人たちが笑顔でいてくれるのなら、それ以上にもう、なにも望むことはないんだ。

蒼斗は、空に向かってまっすぐ手を伸ばした。届くと、信じているから。

空の恋人 END

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