「ギリ東京、ほとんど埼玉」というキャッチフレーズですっかりおなじみの街に、私の通う小さな大学がある。学部が社会福祉学部の一つしかない、ユニバーシティではなく、いわゆるカレッジだ。
緑の多いキャンパスは、近所の保育園から園児たちが先生たちに連れられて散歩に来たり、近くの団地に住む高齢者たちの憩いの場所になったりしている。昼間、授業で学生たちが教室内にいるときなどは、大学ではなくちょっとした公園と見間違えられるほどだ。
緑豊かな環境ということで、療養関係の施設や病院も多く、最寄りの駅からはよく病院直行のシャトルバスが走っている。都心の大学にあるような、キラキラしたキャンパスライフを特段、望んでいたわけではない私にとって、この大学は身の丈にあった場所なんだろうと、この春、三年生になってようやく思えるようになった。
なぜなら私は、特段ファッションに流行を追いかけるタイプではない。はっきり言ってしまえば、地味なほうだと思う。肩までのばした黒髪を適当に一つに結び、メイクは日焼け止めを塗る程度で、身なりはたいていファストファッションで済ませているような人間だからだ。
自転車で大学からアパートまでは、駅を挟んでだいたい十五分。頑張れば(あと、信号無視をすれば)十分もかからない。駅前の商店街は人通りが多いから、メインストリートから一本外れた舗道を走る。
この日はアルバイトが夕方の浅い時間帯からだったが、三限まで授業だったので急いで自転車を走らせた。駅直結のショッピングモールの中のドーナツショップで働きはじめて半年、勉強と同じ、いやそれ以上にいろいろなことを学ばせてもらっている。バイト代はアパートの家賃に充てている。
ショッピングモールのある駅ビルの駐輪場に自転車を停めた。小走りで従業員出入口を目指していると、別店舗でのバイトを終えた同期生の姿があったので、私は軽く手を振った。すると彼は、少し疲れた表情で手を振り返した。
「お疲れ」
「お疲れ。何時まで?」
「閉店コース」
私がそう答えると、彼は決して明るくない表情で「ファイト」と言ってまた手を振った。
小さな大学なので、だいたいの人とは顔見知りになる。大げさではなく、本当にそうなのだ。それゆえ、それほど親しくもない彼の近況については、私も知っていた。彼は最近、同じゼミ生に、彼女を奪われたばかりだった。
学生バイトに失恋休暇などがあるわけもない。つらいだろうが、もしかしたら働いて体を動かしていたほうが、気が紛れるのかもしれない。
客がセルフでドーナツをトレーに載せ、レジまで運んでくる。「ご一緒にお飲み物はいかがでしょうか」ときくのがマニュアルだが、以前は飛ぶように出ていたタピオカミルクティーが、最近はとんと売れなくなったことを肌で感じている。流行の廃りというのは、本当に容赦ないと思う。
「ご一緒にお飲み物はいかがでしょうか」
「……水ください」
「かしこまりました」
そこでハッとした。アルバイトを終えたばかりの先ほどの彼が、仏頂面でシュガードーナツを一個トレーに載せてレジに並んでいたのだ。
「お待たせいたしました」
ドーナツ一個とグラスの水をトレーに載せ、彼はレジからそんなに離れていない場所に腰掛けた。背中がどこか寂しげに見える、と思うのは失礼だろうか。彼は早々にドーナツを食べ終えると、あとは水だけでその場に居続けた。時折、セルフサービスでおかわりの水を注ぎに席を立つ以外は、ほとんど窓の外をぼーっと眺めているようだった。いつまで彼がその場にいたかといえば、なんと閉店時間までだった。
閉店を知らせる『蛍の光』のメロディが店内に流れはじめても、彼は席を立とうとしなかった。私はさすがに心配になって、「お客様」と声をかけた。
「すみません、もう閉店時間でして」
「うん、知ってる」
「……水、もう一杯飲んでく?」
「いや、もうタプタプ」
「だろうね」
「今日ここが閉店したらさ、俺、死んでいいかな」
突然の彼の言葉に、私は持っていたモップを落としてしまった。無造作に伸ばされた前髪の奥で、彼の両目が暗く光っているような気さえした。
「なに言ってんの」
「いや、ごめん。なんとなく、許可がほしくて」
「許可?」
「なにもかも終わりにしていいっていう許可」
「……」
私はすぐには二の句が継げなかった。ただ、モップを拾い上げてくれた彼の目は、真剣そのものだったので、なにか言わねばという切迫感を強く覚えた。それなのに、よりによって、私はこう切り出してしまった。
「唐島さんのこと?」
唐島とは、言わずもがな彼の元恋人の名前だ。彼は力なく頷き、ようやく席を立った。
「有名な話か。ははは」
「ごめん」
「失恋ってさー……洒落にならないほどつらいだろ。今日バイトで作った牛丼の一杯一杯に悲しみをぶち込めても、一向に楽にならないくらい」
「その牛丼、食べた人かわいそう」
「こんなにつらいなら、俺、もう死んでもいいよな?」
ガタン! とパントリーのほうで音がした。油を売っている私を注意するために店長がわざと立てたのだろう。
「終わったら会おう」
私は咄嗟に、そう言っていた。彼は、小さく首肯した。
たかが失恋、されど失恋。いつの時代も失恋ソングがヒットするのは、失恋というのが極めて個人的なことであると同時に、普遍的な痛みであるからなのかもしれない。
私自身は、経験豊富というわけではなく、どちらかというと受身的な恋愛を続けてきた。つまり、自分からは、想いがあっても告白はしたことがない。
彼とLINEで連絡を取り合って、駅近くのファミリーレストランで待ち合わせた。先に入っていた彼はドリンクバーを注文していた。まだ飲めるんだ……。
「違う。安くて長居できるから」
「なるほど」
私はアルバイト疲れですっかり空腹だったので、エビドリアを注文した。
「さて」
「うん?」
私が向き直ると、彼は少し緊張して応答した。
「しんどいんだ」
「まあね」
「だからって、死ぬなんて言わないでよ」
「迷惑だった?」
「そういうことじゃない。でも、死ぬことはないと、思う」
「どうして」
「もったいない、から」
どうしてこういうとき、気の利いた言葉の一つも言えないんだろう。私が自己嫌悪に苦虫を噛み潰したような表情になると、それを見た彼が突然、笑い出した。
「なに、面白いことでも私、言った?」
「いやごめん、白川さんって、ほんとお人好しだなって」
「どうして」
「普通、相手にしないでしょ。こんな死にたがりのかまってちゃんなんて」
「そう?」
「嬉しいよ」
「えっ」
「真剣になってくれて。嬉しい。馬鹿にしないでくれて」
そこへエビドリアが運ばれてくる。私は奇妙な心持ちで、ひと口目をはふはふと頬張った。疲れた体に、しょっぱさと旨みがよく沁みた。大きめのエビが入っていたので、それをフォークでつっついた。
私はエビドリアを採掘しつつ、彼の表情を見やった。まるで真面目が服を着て歩いているような印象を受けた。
「じゃあさ、どうせ死ぬならその前にひとつ、楽しいことをしようよ」
私がそう提案すると、彼は不思議そうな顔をした。
「楽しいこと?」
「そう。なんでもいい。映画館に行くのでも、遊園地に行くのでもいい。ショッピングでもいいし」
「花火」
「ん?」
「花火がしたい」
「まだ5月だよ?」
「ドンキになら売ってると思う」
「ドンキか。あそこなら24時間営業だね」
ところが、いざ花火を買ったのはいいものの、公園での着火行為全般が禁止されていることを、今日初めて知った。喫煙がだめなら、いわんや花火をや。
結局、彼と二人で、夜の遊歩道をひたすら自転車で走ることになった。夜遅くなので歩いている人はまずいない。二人で自転車を勢いよく漕いでいると、なんだか街から影を切り取られたような、ふわふわした気分になった。
「夏になったら、海に行こう。浜辺で花火をしよう」
私がそう言うと、彼は首を縦に動かした。
「それまでは死んじゃだめ。約束ね」
「おう」
街明かりを時速十五キロで次々に横切る。間違いなく、私たちは街から取り残されていた。
こうして、私と彼——桐生聖也とのぎこちない関係がはじまった。
二限目 噂 に続く