三限目 ぱん

芸能人の自分にまったく興味を示さない彼に、佐宗は却って興味を持ったらしかった。取り巻きたちには目もくれずに、しょっちゅう彼にちょっかいを出していた。

その日は二限が終わって昼食時になるやいなや、大教室の一番後ろを陣取っていた佐宗が「桐生くーん」と、教室の隅に座ってノートを取っていた彼に大声で話しかけた。

彼が無視すると、取り巻きの一人が怒気を込めた声色で「おい」と立ちはだかった。

「亜梨実ちゃんが話しかけてんだろ。なにシカトしてんだよ」
「……公的扶助の8種類、言えるか」
「なに?」
「生活扶助、住宅扶助、教育扶助、介護扶助、医療扶助、出産扶助、生業扶助、葬祭扶助。基本中の基本」

彼の気迫に、あっけなく押し黙ってしまう取り巻き。彼は不機嫌そうにノートを鞄にしまうと、「なんですか」と佐宗に話しかけた。

「一緒にランチしよ? カフェテリア、席とってあるんだ」

カフェテリアと言えば聞こえがいいが、要は学食の隅の喫茶コーナーだ。彼は面倒な表情を隠しもせずに「わかりました」と返事をした。

その様子をハラハラしながら見ていた私のスマートフォンが鳴った。彼からのLINEで、『ヘルプ』とだけ送られてきた。

「カフェテリア、だって」

私の隣で授業を受けていた加藤が茶化すように言った。

「行かないの? カフェテリア」
「行くよ。行くけど」
「『けど』?」
「邪魔が入りそう」

机を挟んで私の視線の先には、鬼のような形相の唐島が立っていた。

「白川さん」

話しかけられて、その声色にぞっとした。いつも周囲に愛嬌を振りまいているときのそれとは、大違いだったからだ。

「なんか用」
「わかってるくせに。この泥棒猫」

泥棒猫なんて表現、久々に聞いた。口語では、たぶん初めてだ。大教室では昼食に行こうとする学生たちが、好奇の視線を一瞬だけ私と唐島に向けながら、めいめいに散っていく。加藤も、不穏な空気をすぐさま感じ取って、「じゃあね」とだけ言って、そそくさと去っていった。

「聖也を返してよ」
「返す?」
「いつから狙ってたか知らないけど、私は、聖也のほうから告白してきたんだからね」
「ふーん」
「なに、イマカノの余裕ってやつ?」
「知らない」
「むかつくんだけど」

相手にするのが疲れるので、私は「じゃあ、どうも」とだけ言って学食を目指した。背後で、はっきりと、舌打ちを聞いた。

二百円のソフトクリームと百八十円のブレンドコーヒー。学生食堂価格なのはもちろんのこと、味もそこそこ美味しいことで、特にソフトクリームは人気の一品だ。

私が到着したとき、佐宗はソフトクリームを舌先でぺろぺろと舐めていた。なんというか、あざとい仕草のように思われた。

「あら、彼女さん」
「白川です」
「白川さん。私も連れてってよ、浜辺で花火。夏になったら行くんでしょう? どこの海?」

私は黙ってアイスコーヒーをストローで吸った。

「桐生くんったら強情なんだよね。なに話しかけても『そう』とか『はい』としか言わないの」
「でしょうね」
「あ、それってカノジョの余裕ってやつ?」

どうして、異口同音にどうでもいいことを発するのだろう。

「佐宗さん。佐宗さんは社会福祉学を勉強するためにわざわざこんな辺鄙な大学に来たんじゃないんですか。青春したいなら、いくらでも選択肢はあったでしょうに」
「やだなぁ。私は本当に社会福祉を勉強したくて、ここに来たんだよ? いいことたくさんして、社会のお役に立って、罪を償わせてもらおうって思ってて——」

そこまで佐宗が言うと、彼がテーブルをドン! と叩いた。一瞬だけ佐宗は怯んだが、すぐに子猫がかった声色でこう言った。

「桐生くん、どうしたの?」
「そういうの、俺、無理なんで」

同意、の意味を込めて私は小さく頷いた。

「腹減った。行こう白川さん。購買ならまだ開いてるから」
「焼きそばパンが残っていますように」

不服そうな表情でため息をついてから、佐宗は早々にスマートフォンをいじり始めていた。


購買でラストワンの焼きそばパンとかにぱん、ツナサンドをゲットした私たちは、校舎の中庭にあるベンチに腰掛けた。5月の新緑がさわさわと風にそよいで、心地よかった。私はレジ袋からかにぱんを取り出して封を開けた。

「かにぱんって、こうして足を一部ちぎればトンボぱん。全部ちぎればせみぱんになるんだよ」
「なにそれ?」

実際に私が「トンボぱん」から「せみぱん」にしてみせると、彼のツボにハマったらしく、彼は声を出して笑った。

「じゃあさ、これはどう?」

彼は私の手から「せみぱん」をとってせみの目にあたる部分を片方ちぎり、こう言った。

「トランシーバーぱん」
「ぷっ」

私も思わずふき出した。

「なんだろう、不思議な感じ」

かにぱんを頬張りながら彼が言う。

「なにが?」
「白川さんといると、俺、なんだか楽っていうか」
「それはよかった」
「あのさ」
「うん?」
「笑わないで、聞いてほしいんだけど」
「いいよ」

彼はいきなり、やけに神妙な面持ちになった。

「死神って、信じる?」
「死神?」
「いつでも自分のそばで、死神が手招きしている、って言ったら、信じてくれる?」
「うん」

私は即答した。その人がそう思うなら、きっとそうなのだ。もちろん、彼だって例外ではない。

「そっか」

彼はホッとしたように息を吐いた。そして再び、かにぱんにかじりついた。

私はこの時ふと思った。もしかしたら彼は、ただありのままの自分でいられる居場所を探しているのかもしれない、と。

四限目 蛙さん に続く