実習も折り返し地点に入り、内容にも日々の日誌書きにもこなれてきた頃のことだ。朝からデイケアの事務室内が緊迫した雰囲気に包まれていた。
実習の指導教官を含めた3名が、なにやら深刻そうに話し合いをしている。
「いや無理ですって」
「でも仕方ないでしょう」
「騒ぎになりますよ」
「そうならないようにするのが、私たちの役割でしょう」
「でも、受け入れなんて、無理ですって」
「無理かどうかじゃない。やるか、やらないかです」
「根性論でどうにかなることですか?」
「責任は誰がどう取るんですか」
「ひとまずは室長の私が取ります。でも、最終責任者は院長です」
「院長に話は?」
「だから、院長からの依頼なんですよ。最初に言ったでしょう」
「じゃあ、本当に……」
3名がそこで、申し訳なさそうにたたずんでいた私に気づき、「あ、白川さん、おはよう」と指導教官が笑顔を取り繕ってあいさつした。
「おはようございます」
「今日も頑張ってね」
「はい」
私がデイケアルームへと向かうと、部屋の隅でうずくまっている男性メンバーがいた。「どうしました」と声をかけると、男性は首を横に振った。そこで他のメンバーが、「今、カウント中だから話しかけないであげて」と私に言った。
「カウント中……?」
「彼がこの姿勢の時は、羽の生えた仔猫を数えている時だから」
「はい」
よくわからないが、この男性メンバーにとってきっと大事なことなのだろう。それにしても、羽の生えた仔猫か。ちょっとかわいすぎるな。
いつも通りラジオ体操の音楽が終わっても、しばらく他の職員は姿を現さなかった。私がラジオ体操の音源を流していたコンパクトスピーカーを決められた場所へ戻すと、先ほどの男性メンバーが寄ってきて、「今日は、33匹も見つけたよ」と嬉しそうに報告してくれた。
いくらかわいくても、羽の生えた仔猫がうじゃうじゃしていたら、それはそれで、少し気味悪いかもしれない。
今日は「短歌の日」だった。テーマは「傘」。どんな作品が披露されるのだろう。
職員が来ないので仕方なく、私がホワイトボードに「短歌の日」と記入した。すると「白川さん、白川さんも詠んで!」と声が飛んできた。声の主は、実習初日からよく話しかけてくれる女性メンバーの森本さんだった。よくしてくれているので、むげに「いや、私はできません」というわけにもいかず、「ちょっと時間をください」とお願いをした。
ホワイトボードに、各々が詠んだ短歌がしたためられた紙が貼られていく。私の目に、森本さんの一首が飛び込んできた。とても整った字体で、こう詠まれていた。
きみはまだ覚えてますか雨傘を忘れたふりし寄り添った夜を
素直に、素敵だなと思ったので、「素敵ですね」と森本さんに伝えた。すると森本さんは照れたように笑って、
「大昔も大昔、学生時代の思い出よ。恥ずかしいけど、褒めてくださるのは嬉しいわ」
と顔を赤らめた。
他のメンバーの短歌もなかなかの実力派ぞろいで……と言いたいところだが、私には短歌の造詣がまったくないので、中にはどのように読めばいいのか、解釈に手こずる歌もあったりした。
シュバババッ! ちょうちょをやっと捕まえたと思いきゃ折れたビニ傘だった
靴下は片方なくすと気づくのに傘は折れても気にされぬ不思議
傘 傘 傘 誰かが降ってくるような気がする早く優しくしたい
ただ、面白いなとは思った。詩歌の創作というのは、単なる自己表現にとどまらず、作者の想いの貴重な発露の手段にもなりえるのだろうと感じた。
「白川さん、詠めた?」
私は、まっさらの用紙を差し出して「明日までに詠んできます」と力なく返答した。森本さんは破顔して、「楽しみにしているわね」と言って勘弁してくれた。
「ちょっと待って!」
という制止の声が聞こえたのはその直後のことだ。デイケアルーム内にいた人々が、一斉に沈黙した。突如ルームに入ってきたのは、私と同じ歳くらいの女性だった。
「あ~、やっぱ白川さんじゃん」
丈の長いTシャツにジーパン、クロッカスというカジュアルな格好で現れたのは、どこかで見覚えのある顔だった。……誰だっけ。
「もう私のこと忘れちゃった? それともノーメイクだからかな。ウケる」
そうだ。目の前にいるのは、あの佐宗亜梨実だった。その場にいる皆の視線が、元人気アイドルに注がれる。
「はいはい。みんな驚かないでよ。私だってみんなと同じ『メンバー』なんだからさ」
「えっ!?」
誰よりもすっとんきょうな声をあげたのは、他ならない私だ。
「じゃあみんな、よろしくね~」
まるで現役アイドルのように手を振る佐宗。私は何が何だかわからなくて、事務室から出てきた指導教官に尋ねようとした。だが、それより先に指導教官が私をけん制した。
「他言無用で」
「はい?」
「このことは、絶対に日誌に書かないで」
「はい」
「私たちも承知したわけじゃないの」
「……そうですか」
そう返すのが、私には精いっぱいだった。
出来事の一切を外部に漏らさないという条件で、この日、私はその場で実習することが許された。いや、許されたも何も、こちらはただ、実習に来ているだけなのだけれど。
佐宗はにこりと笑って、私の目の前にすとんと腰かけた。
「びっくりした? 私もびっくりした! でも嬉しいな、こんなところで友達に会えるなんて」
友達。いつから?
「平井さーん」
佐宗は指導教官の名を呼んだ。
「ねぇ、白川さんって、実習に来てるんでしょ? じゃあ、私の相手もしてくれるんだよね」
「えっと……」
口ごもる平井に、畳みかけるようにして佐宗は言った。
「じゃあ今から面会室、借りるね」
佐宗は私の右腕をぐいっと掴んだ。私はされるがまま、ルームの隣にある面会室へと連れていかれた。横目で、指導教官が頭を抱えているのが見えた。
六限目 友達 に続く