面会室で向かい合って座った。佐宗はにこにこしながら私を見つめている。
「あの……」
私から声をかけると、「なに?」と嬉しそうに佐宗が応答する。「なに?」は私のセリフだ。
「どうしてこんなとこにいるのかって? 気になる? そりゃあ気になるよね」
「いや、えっと」
私は自分の唇が、6月だというのに乾ききっていることに気づいた。喉もからからだった。
「お茶でも、飲みませんか」
「わーい、友達とお茶。憧れだったんだよね。まあ、かわいいカフェじゃなくてこんな場だけど、まあ相手が白川さんなら、どこだって嬉しいよ。うん」
私がメラミン製のカップ二つに麦茶を注ぎ、そのうち一つを佐宗に渡すと、彼女は「ありがとう」とウインクしてきた。仕草の一つひとつが、どこかわざとらしく感じられた。
「ね、カンパイしよ。再会を祝して——」
「いえ、ちょっと」
私は佐宗の提案を拒否した。すると、まるでスイッチが入った人形のように佐宗は泣き出した。
戸惑う私を責めるような口調で、佐宗は「ひどい」と言った。
「どうせ私のことなんて『可哀想』とか思ってるんでしょう。その通りだよ。私はただ、友達が欲しかっただけなのに。なんで私のそばにはヤクを勧めるような輩か、体目当ての連中しか寄ってこないの。ねぇどうして。どうしてよ」
私は泣きじゃくる佐宗のそばに寄り、そっと背中をさすった。見た目よりずっと華奢で、強く触れれば壊れてしまうんじゃないかというくらい、繊細な骨格をしていた。
「ごめんなさい。いや、ごめん」
「なんで私が、こんなところにいると思う?」
「いや、わかりません」
「私ね、あれから少しの間、この病院に入院してたの。正確には、入院させられてたの。あれやっちゃったんだよね。OD。睡眠薬3ヒート、一気飲みしちゃったの」
3ヒートということは、30錠ということか。OD、オーバードーズは、さぞ体にも負担がかかったことだろう。
「気づいたら、病院のベッドにいた。で、そのまま入院コース。笑っちゃうでしょ」
「……いえ」
「青春なんて無縁の業界にいたからさ、正直、みんなが羨ましかった。私だってフツーに学校に通って、恋愛して、バイトしてって生活を送りたかった」
「そう……」
「私にはもう、何もないの。ううん、違う。最初から何もなかった」
佐宗はそこまで言って、涙を細い指で拭うと、黙り込んでしまった。
私は困ってしまって、佐宗の背中に添えていた手をそっと引っ込めた。しばらく、ぎくしゃくした時間が流れたが、やがて佐宗がこう発した。
「あーあ。どこへ行っても、私は独りか」
その言葉に、私はひとつの可能性を見出した。
「……佐宗さん。もしかして、ずっと寂しかったの?」
私がそう言うと、佐宗はもともと大きな瞳をさらに大きくして、私に抱きついてきた。
「白川さん、ううん、聡美ちゃん、ううん、さとみん! さとみん、私のこともアリみんって呼んで」
「えっ」
もしかしたら、この人は、他人との距離感が掴めない系の人なのかもしれない。
「ア、アリミ。どうか落ち着いて。なんだか、私が泣かせたみたいになってるし」
私が『アリミ』と呼ぶと、アリミは雲がさあっと散ったように表情を明るくさせた。
「ごめん、さとみん。でも、ありがと。今度はこんな場所じゃなくて、かわいいカフェでお茶しようね」
「う、うん」
簡単に約束などしていいものだろうか。私の中に罪悪感がぽちりと点灯した。けれど、この約束は、意外にもあっさりと果たされることとなる。
他言無用と言われているので、いくら彼といえども、佐宗亜梨実と意外過ぎる形で再会したことは言えなかった。
一方、彼のほうも、言いたくても言えないようなことを抱えているようだった。まるで「突っ込んで訊いてください」とでも言わんばかりに、「大変なことになった」というLINEが送られてきたので、私はご要望通り「何かあったの?」と返信をした。
既読がついてから少し間を置いて、こう返ってきた。
「実習先に唐島が来た」「待ち伏せされてた」「どうしたらいいだろう」
なんなんだ、この、「今すぐ電話くれ」的LINEは。さすがは、この夏で人生を終わらせる気満々のかまってちゃんっぷりだ。私は、自宅アパートのベッドに寝転がったまま、彼のLINEアカウントに通話した。すぐに応答があった。
「もしもし、どうした」
「唐島にキスされた」
私は全身の血管が、一気に沸騰するのがわかった。言葉が出てこない。何も考えられない。考えたくもない。
「俺は、どうしたらいいんだろう」
彼の戸惑いはもっともだ。だが、このときの私には彼を思いやれる自制心がまったく作用していなかった。
「よかったじゃん」
口をついて、こんな言葉が出てしまう。
「違うんだ、聞いてほしい。できればどうか、笑わないで聞いてほしい」
「のろけるなら、よそでやって」
言い捨てて、私は電話を切ってしまった。
なんて私は馬鹿なんだろう。なんて愚鈍なんだろう。
——こんな形で、彼への想いを自覚するなんて。
翌日、森本さんに出されていた宿題の短歌を、なぜか昼食時にみなの前で発表することになった。アリミも興味津々な様子で、私の一首を待っているようだ。私はコンビニおにぎりの昆布を食べ終えると、粛々とみなの前へ立った。
「えー、じゃあ、今の気持ちっていうか、まあそういう感じの一首です」
「白川さん、ファイト!」
森本さんが声援を送ってくれた。
「さとみん、リラックスだよ~」
アリミも楽しそうに続いてくれた。私は短く深呼吸した。
もし傘を凶器にする日が来るならそれがあなたの命日になる
「おお……。なんていうか、すごく鬼気迫る歌ね」
森本さんが、感心したように言った。アリミは少しの間、腕組みをして黙っていたが、すぐに合点がいったらしく、私を指さして断言した。
「さとみん、きりゅークンと別れたの?」
「別れたも何も、そもそもなんでもなかったから」
「うっそだ~、あんなに仲良さそうだったのにー」
アリミは、今度はぽん、と手を叩いた。
「あ、もしかしてケンカしたの? じゃあ仲直り、するっきゃないでしょ」
「違うってば」
アリミの言葉が、逐一すべてちくちくと刺さるので、私はかなりの苛立ちを覚えていた。そんな私に構うことなく、アリミはマイペースに続ける。
「今日、実習が終わったら、練馬高野台駅で待ってるから」
「え?」
アリミは、かつてファンたちにそうしていたように、私に向かってウインクをした。
一部始終を見聞きしていた実習指導教官は、おかんむりを通り越してあきれていた。なので、私が叱られることはなかった。それが幸運だったかと問われれば、はなはだ疑問ではあるけれど。
支援者が被支援者とプライベートな繋がりを持つことは、基本的にNGとされている。しかし、私とアリミは支援者―被支援者というよりも、同じ年代の(アリミにとっては)「親しい仲」と表現したほうが、関係として正確かもしれなかった。
その日の実習が終わり、病院を出てスマートフォンを見ると、彼から一通だけLINEが来ていた。といっても、実はこれは朝に来ていたものだったが、私は未読スルーを決め込んでいたのだ。
しかし、さすがに無視は良くないと思い、思い切って開封した。そこには、一言だけ、こう書かれていた。
「ごめん」
誰に対して、何を謝っているんだろう。わからない。でも、わからないままでもいい。わかりたくはなかった。わかろうとする勇気が、この時の私には絶望的に欠けていたのだ。
「だからね、さとみん。私が思うに、そんなことは、さとみんにしか話せなかったんだよ」
練馬高野台駅で待ち合わせたアリミと私は、西武池袋線で池袋まで繰り出した。ノーメイクのアリミは、申し訳ないがアイドル時代とはほとんど別人級で(それでもじゅうぶんかわいいのだが)、ゆえに芸能記者に付き纏われることも、ほとんどなかった。
少し前に、ネットニュースに「【悲報】佐宗亜梨実、精神科デイケアでリハビリの日々」という見出しの記事が出たことがあった。しかし、それに対しては批判の声が相次ぎ、炎上寸前でその記事はすぐに削除された。この社会にはまだひと匙の善意が残っているらしかった。
私たちは、星座をモチーフにしたパフェの食べられるカフェに来ていた。
「さとみんってみずがめ座なんだ。みずがめ座とてんびん座って相性いいんだよ。知ってた?」
「知らなかった。アリ……えっとクミコは、何座なの?」
念のため、「アリミ」という目立つ呼称は避け、クミコという偽名を使うことにした。ゼミの教授から拝借した名前だ。
「私? 泣く子も黙る9月生まれの乙女座だよ」
「なるほど。確かに『っぽい』ね」
「でしょ」
ふふ、と笑ってみせる唇に、思わず私はどきりとした。性別を超えた色香や魅力が、確かに本物の芸能人のそれだと思わされた。
パフェの底が見えてきたころ、私はやっとアリミに事の顛末を話せたのだった。
「つまり、さとみんはきりゅークンが好きで、でもきりゅークンは他の女とキスしちゃったのね。そりゃ、頭にきて当然だよ」
「そっかな。私に、怒る資格なんてあるのかな。別につきあってたわけでもないのに」
「えー? はたから見たら、さとみんときりゅークンは、立派にカップルだったよ」
「そう、なのかな」
パフェのグラスの底に残ったブルーベリーソースをスプーンでつつきながら、私は言った。
「私たち、ちゃんと『私たち』だった?」
こんな抽象的な質問にも、アリミは真剣に耳を傾けてくれた。
「もちろんだよ。今からでも、遅くないよ」
アリミは、まっすぐに私を見て言ってくれた。これでは、どちらがもともと支援者だったかなんて、わからない。もうそんなことは、どうだってよかった。
私はアリミに「ありがとう」と笑顔を向けた。すると、「そう、その顔、きりゅークンに早く見せてあげなよ」と背中を押してくれた。
私はスマートフォンを取り出して、彼のLINEアカウントの通話ボタンを押した。今なら実習も終わって、自宅アパートに着いている頃だろう。
しかし、何度かけても繋がらなかった。LINEではなく電話に切り替えても、呼び出し音が流れるばかりである。彼はスマートフォンに留守電設定をしていないらしく、仕方ないのでテキストメッセージで「私のほうこそ、ごめん。今夜、会えますか」と送った。
それに対しても、既読がつくことはなかった。
七限目 動機 に続く