彼のスマートフォンから着電があったのは、アリミと池袋駅前で別れてしばらく経ってからだった。外はだいぶ暗くなっていて、時刻も午後6時半を過ぎていた。
「もしもし」
しかし、期待した声は聞こえてこなかった。電話の主は、やや遠慮がちにこう切り出した。
「白川聡美さんですか」
「はい?」
「桐生聖也の母です」
「えっ、あっ」
私の脳内に、クエスチョンマークと同時に嫌な予感が走った。
「あの、桐生くんにはいつもお世話になってます、っていうか、はい、お世話になってます」
「そうですか」
彼の母を名乗るその人物は、少し沈黙してから、私にこう告げた。
「息子は今、集中治療室にいます」
「え」
「あなた宛ての、手紙、いえ遺書、っていうのかしら、そういうのが見つかりました」
私は、一気に欄干のない橋の中央に立たされている気分になった。少しでも風が吹けば、奈落に落ちてしまうかのような恐怖と、底なしの後悔の念とがない交ぜになった、ぐちゃぐちゃの感情が、私を一気に支配していく。
「ごめん」って、そういう意味だったの? 馬鹿野郎、馬鹿野郎、——馬鹿私!
呆然と立ち尽くす私を、どんどん追い抜いていく人々。私は歩道用信号の青色が点滅して、赤に変わるのをただ視界に入れていた。
「今夜が山だと、先ほど言われました。どうか、来てもらえませんか」
——さとみんときりゅークンは、立派にカップルだったよ。
「わかりました。病院の名前と場所を教えてください」
道行く人に不審者と思われても、仕方ない状態だったと思う。私は目元を真っ赤にして、肩で呼吸しながら電車のつり革にしがみついていた。顔色もきっと真っ青だったのだろう、高齢の女性が「あなた、大丈夫?」と席を譲ってくれようとしたが、「ありがとうございます。大丈夫です」と丁重にお断りした。人肌に温められた席に座ろうものなら、今抱えているぐちゃぐちゃが、あっけなく破裂してしまいそうな感覚を覚えていたからだ。
アリミと別れてから降り出した雨は、徐々に強くなっていた。電車の窓を、大粒の雨が叩いているのを、私はただ見つめることしかできなかった。
西武池袋線の快速急行停車駅から、徒歩で十分ほどの場所に、彼が搬送された病院があった。夜間救急の入口に、電話をくれたと思われる女性——彼の母——が傘をさして待っていた。私が会釈すると、深く会釈を返してくれた。
彼女に案内されて、待合室にたどり着いた。集中治療室に入ることはできないので、ソファーに腰掛けた。私は、そのまま床に沈み込んでしまうような感覚に襲われた。
非常に重苦しい、鉛のような沈黙が、彼の母と私の間に落ちていた。何度も、腕時計を見た。時刻は午後7時半過ぎ、夕飯時を過ぎているが、腹はまったく空いていなかった。
私が両手で顔を覆うと、彼の母が話しかけてきた。
「あなたは、どうして社会福祉士を目指していらっしゃるの?」
唐突な質問に、私は面食らってしまった。そしてやや間を置いてから、こう答えた。
「えっと……。私が中学生の時、祖母が認知症で入院したんです。入院先は精神科でした。大好きな祖母でした。入院はレスパイト的な意味合いで……えっと、家族が一時的に介護を休むための入院だったはずなんです。でも、入院先で祖母は薬漬けにされて、かなり状態が悪化してしまいました。面会に行って、愕然としました。大好きだった祖母はもう、壊れてしまっていたんです。けれど、主治医は一切の非を認めませんでした。それどころか、私たち家族の無力さが祖母を追い詰めたのだと、そんな暴言さえ吐きました。祖母は退院もできず、最期は私たち家族のこともわからなくなって、孤独のうちに亡くなりました」
「そう……」
「……許せなかった、です。この国の精神科医療は、何かおかしい。でも、何がどうおかしいかわからない。だったら、自分が専門職になって、業界に潜入してやろうと思ったのが、きっかけです」
「それはつらかったわね。聞かせてくれてありがとう」
彼の母は、真剣に私の話を聞いてくれた。
「あの子が、あなたを選んだのが、わかる気がします」
「えっ」
「これ、あなたに」
彼の母は、折りたたまれたルーズリーフを私に差し出した。先ほど言っていた、手紙、というか遺書だろうとすぐにわかった。私はそれを受け取ると、ゆっくりと開いてみた。そこには、癖のある字でこう記されていた。
白川 聡美 様
笑ってください。
死神に克てませんでした。
楽しい日々をありがとう。
約束を守れなくてごめんなさい。
あの日買った花火は、処分してくれてかまいません。
桐生 聖也
私の目から、ぽろぽろと涙があふれだした。落涙したしずくが、手の甲を伝って冷たい床に落ちていく。
「あなたを責めるつもりはありません」
彼の母は言った。
「あの子がね、こうして大学に通えていること自体、奇跡みたいなものだから」
「……奇跡?」
「あの子は中学校時代、同級生や教師たちから陰湿ないじめを受けていました。私は当時、守ってやれなかった。あの子は中学二年生以降、ほとんど教室に行けませんでした。教育委員会にも訴えましたが、被害は握りつぶされました。追い出されるようにして卒業させられて、高校は、定員割れでどうにか合格したような学校に通って。……あの子はあの頃、誰のことも、信じていなかったように思います」
「……」
「だから、ある時、『社会福祉士』という資格があることをネットか何かで知ったらしくて、それになりたいと言った時には驚きました……。それまでの分を挽回するように猛勉強を始めたんです。こちらが心配するくらい、おかしくなってしまったのかと思うくらいの気魄で、受験勉強して。それでどうにか、今の大学に入れたんです」
私は、固唾を飲んで、彼の母の語りに耳を傾けていた。
「中学時代のいじめの発端は、他のいじめられっ子をかばったことだったようでした。心優しい子です。それでね、どうして『社会福祉士』を目指したいのか、あの子に聞いたことがあったんです。あの子、なんて答えたと思います?」
そういえば、なぜ彼が社会福祉士を志望しているのか、きいたことがなかった。
「あの子ね、真剣な表情でこう答えたんです。『本当に困っている人を支援するのが社会福祉士の仕事だろ。だから将来、俺をいじめたやつらが生活で困り果てて、もしも俺の前に現れたら、その時は心から笑顔になって、やつらを支援してやるんだ。お困りですか、大変ですね、って』」
何も言えなかった。彼が社会福祉士を目指す理由を初めてきいて、私は何も言葉を返すことができなかった。
——嬉しいよ。真剣になってくれて。嬉しい。馬鹿にしないでくれて。
きっと彼は、あまりにも傷つけられすぎたのだ。悪ふざけという名の暴力を振るわれて、ひたすらに自尊心を削り取られてしまったのだ。塞がりようのない生傷が、彼の心をひどく蝕んで、現在進行形で彼に痛みを与えているのだ。
なんてことだ。私は、彼のことを、何ひとつわかっちゃいなかった。そんな目的で社会福祉士を目指すだなんて、前代未聞じゃないだろうか。でも、きっと、いや絶対に、どう考えても、それって——
「桐生さん」
そこへ看護師が早足でやってきて、こう伝えた。
「息子さん、意識を取り戻しました」
「やっぱりダメだったか」
目を覚ました彼は、母の姿を視認するや否や、開口一番そんなことを言った。
「なに言ってるのよ」
「死にきれなかった」
「馬鹿なことを言わないで」
彼の母は、目元にたっぷりと涙を浮かべていた。
「白川さんも来てくれてるのよ」
私が、遠慮がちに彼の母の後ろから姿を見せると、彼は「おう」と横になったまま手を挙げた。こんな時に、「おう」じゃないっての。
「来てくれたんだ」
「来てあげたよ」
「そっか」
彼は私とは目を合わせずに、しばらく白い天井を見つめていた。
「ああ、安心したら、喉、渇いちゃった。自販機まで行ってくるわね。お茶系でいいかしら」
彼の母は小銭入れを片手に、足早に部屋を出て行った。もしかしなくても、私たちに気を遣ってくれたのだろう。
私たちは、互いの言葉を待っている様子だった。夜が深くなって、雨足はますます強まっているようで、バタバタと窓を叩く雨粒の音が響いている。
私は長く息を吐いてから、こう切り出した。
「ソーシャルワーカーの倫理綱領の、原理一つ目を答えよ」
唐突な出題に、彼は目をきょろきょろさせていたが、やがてゆっくりと答えた。
「……人間の尊厳」
「正解」
「基本中の基本。それくらいは——」
「馬鹿野郎」
私は鋭く声を彼に刺した。
「馬鹿野郎。卑怯だ。あんまりだ」
一度こぼれてしまえば、決壊したダムのように、言葉があとからあとから溢れてくる。
「私は、何も知らなかったことが、とても悔しい。あんなにそばにいたのに、そばにいただけだった。ほとんどただの道化だよ。誰も笑わせられない、欠陥品の道化だよ。それに、なんなんだよ、ほんと。復讐のために社会福祉を学ぶって。そんなの、聞いたことないよ」
私がそう言うと、彼はゆっくりと目を細めた。
「……だろうね。軽蔑していいよ」
「最高かよ!」
「えっ」
「馬鹿なのは私もそうだ。自分の気持ちに気づかなかった、とんだノロマだった。どうして、気づかなかったんだろう。でも、だからって、なにさ。なにも死ぬことないじゃない。死なれちゃったら私、もう二度と、気持ちを伝えることができないじゃない——」
そこまで言って、私はハッとした。彼が驚いた表情を見せている。
「あの、それって、どういう意味……」
ここまできたらもう、引き下がる理由のほうが見当たらない。
言いかけた彼の言葉を遮るようにして、私はぼろぼろ泣きながら、はっきりと告げた。
「好きです、この、大馬鹿野郎」
八限目 笑いごと に続く