第一話 キランソウ

第一総合病院精神科病棟。その晩、デイルームのテーブルの上には青い花が飾ってあった。高橋美和は夜勤で眠い目をこすりながら、時々ナースステーションからそれを見た。

とても気持が和んだ。かわいいもの好きな美和だから尚更だ。花なんて、別にそんなものなくてもいいわよと先輩の看護師は言うのだが、せっかくあれをくれた患者さんの気持ちを考えるとそうは思えない。

さらに先輩はこんなことも言った。

「花なんて無防備に置いておいたら、盗まれてもしょうがないわね」

それは、どうにも納得しがたい。

しかし残念ながら、ここにも心ない人間というのはいて、個人の所有物が紛失することはしばしばだ。

「監視カメラを設置するのはどうでしょうか」

美和の提案に、しかし先輩はあきれてため息をついた。

「2つ、不都合が生じるわ」
「2つ?」
「1つめ。『監視』だなんて言葉、ここじゃあまり使わない方がいいわよ。ただでさえ監視されてるって気持ちで生活してる人だっているんだし」
「そっか……」
「2つめ。そんなお金、どこにあるの?」
「はぁ」

美和はがっくり肩を落とした。


普段、日勤帯で勤務していると次々に仕事が舞い込んでくるので、確かに看護師が花など気にすることはあまりない。しかし、だからこそ美和には、誰もいないデイルームで夜に咲いている花が、とても愛らしく感じられた。

その日は夜勤帯勤務で、眠れない患者のために頓服薬を出していた。

突然、洗面所の方から物音がしたので、美和が懐中電灯を片手に駆けつけると、そこで青年患者が水道の水を出しっぱなしにいて佇んでいた。

「あ」

お互い目が合った瞬間、気まずそうに下を向いてしまった。その青年はともかく、なぜ美和まで下を向いてしまったのか、それが自分でも不思議だった。

美和は気を取り直して声をかけた。

「工藤さん、今は就寝時間ですよ。何をしてらっしゃるんですか?」
「……」

工藤征二は手を止めて、俯いてしまう。

しばらく、水の流れる音だけが真夜中の病棟に静かに響いた。

美和はふと征二の手元を見て、それに興味を奪われた。


初夏に咲く、紫色が鮮やかなキランソウの花である。美和は名前こそ知らなかったが、花屋でたまに見るかわいい花だ。

「これ、名前がわからないから……調べてたら、こんな時間になっちゃって」

おずおずと征二は答える。

「このままだと萎れちゃうから、水を……」
「あ、ああ、そうですか」
「名前、知っていますか」
「え?」

美和は思わず「工藤さんですよね」と言いそうになった。が、すぐにそれが的外れな答えであることに気づき、

「さぁ……、私、花には疎くて。それよりも工藤さん、今は寝る時間ですから」
「すみません。どうしても気になっちゃって」
「いいんですよ。ゆっくり休んでくださいね。その花、預かりますよ」

征二は言われた通りに花を手渡そうとして、手を止めた。

そして小さな花びらに話しかけるように、顔を少し近づけて

「……曖昧な夜の統計値は、愛情を持ってのみ補完される」

そう言い残し、呆気にとられる美和に花を渡すと、スタスタと部屋に戻っていった。

美和は、綺麗に洗われたキランソウから滴る水滴をナースシューズできゅっとふき取って、

(今のこと、申し送りに書かなきゃダメかなぁ)

そんなことを考えた。

征二から預かった花は、空き瓶に挿してデイルームの中央にあるテーブルに飾ることにした。


次の日の朝、朝食の時間になって「事件」は起こった。征二が食事を取りに来たので、美和は夜勤で眠いのを堪えながら

「おはようございます。あれから眠れたようですね」

と笑顔で話しかけた。

だが、征二は素っ気なく「おはようございます」と答えただけだ。

(あれ?)

美和が違和感を覚えたその直後だ。

「神幸、神幸!」

ある部屋の中からしわがれた声が聞こえた。ナースステーションから一番近い部屋、高齢者用の部屋である。そこには今、認知症の80代の女性が入院している。

美和は何事かとパタパタ駆けて部屋へ行くと、そこには若い女性患者、皆川アキが悪戯っぽい顔つきで、ニヤニヤとこちらを見ていた。

「皆川さん。何してるんですか? 勝手に他の人の部屋に入っちゃだめでしょう」

皆川アキは、「へへへっ」と美和をからかうように笑った。

「朝食、来たの?」

そう言って、悪びれもせずにその老婆の寝ているベッドに腰かけた。

「皆川さん!」

と咎めようとする美和の言葉は、

「おおお、神幸! ここにあり……!」

という老婆の感極まった声にかぶってしまう。美和は困り果てて、

「皆川さん。朝食が来ているから取りに行ってください。わかりましたね」

半ば高圧的に言ってみるのだが、何分彼女は新米看護師だ。患者も足元を見てくる。

ちなみに、アキと美和は同じ歳だ。

「高橋さん、夜勤で機嫌悪いのはわかるけどさー、私、いいことしたんだよ?」
「いいこと?」
「そ。このおばーちゃんの願い事を叶えてあげたの。ね、斎藤さん」
「おお、おお、おお……!」

よく見ると斎藤さんのしわしわの手には、紫色の花びらが乗っかっている。斎藤さんはそれを、さっきから幸せそうに見つめて、涙ぐんでいるのである。

美和は「あっ」と声を出した。

「それ、どこで手に入れたんですか」
「ん、デイルームにあったのを拝借したんだけど」
「もう!」

美和は怒る気力も失せて、アキでは話にならないと思い、斎藤さんに交渉することにした。

「斎藤さん、そのお花、デイルームのなんです。わざわざ持ってきてくれた方がいるんです。どうか返していただけませんか」

斎藤さんはポカン、と口を開けて美和を見返す。しかし美和は怯むことなく、

「大事な花なんです、お願いです」
「………」

斎藤さんは、花を一つ髪に飾る仕草をしながら、

「わたし、きれい?」
「えっ」
「わたし、きれい?」
「えっと、」

美和は二の句が継げなくなってしまった。アキが「えへへっ」と笑って朝食を取りに出ていってしまう。残された美和は、斎藤さんに精一杯の笑顔で(しかしぎこちないことは否定できない)、

「お似合いですよ」

と答えた。

あー、何だか嘘をついたみたいで、後味が悪い。

ううん、そんなことを気にしている場合じゃない。あれは、大事な花なのだ……たぶん。

「斎藤さん、そのお花、返してもらえませんか」
「あなたもおしゃれをするといいわ。キランソウの、花言葉をご存じ?」
「知りません。いいから返してください」
「いつも地味な服ばかり着ては、もったいないわ」
「これは白衣です」

真面目に返答している自分がなんだか虚しくなった。美和は、斎藤さんがすっかり恍惚としてしまっているので、諦めてデイルームに戻った。患者たちが食事の間、薬を配るのも看護師の役目なのだが、征二に薬を渡す際、美和は注意して彼の表情をちらっと見た。

普段は表情の読めない患者ではあるが、今日は憮然としているのがよくわかった。

花、のことだろう、たぶん。それくらいしか思い浮かばない。アキの方も見た。相変わらず食事をほとんど残して、携帯電話をいじっている。

困ったな。

斎藤さんからあの花を奪えば、またどうなるかわからない。そうかと言ってこれをわざわざ申し送って誰かに任せるのも、なんだか悔しい気がした。

だから、朝のカンファレンスの時、美和は上の空だった。

「高橋さんっ!」

看護主任の叱責が飛んだ。


夜勤帯の申し送りが終了し、ようやく引き上げようとした午前9時。

突如、あの老婆の部屋から泣き声が聞こえたので、美和はリュック片手に慌てて部屋へ向かった。その時早足で通り過ぎる征二とすれ違ったのだが、気に留める余裕はなかった。

すでに斎藤さんの部屋にいた先輩の看護師が、斎藤さんを懸命になだめている。

「待っていると、言ってくれたのに……!」

斎藤さんは号泣していた。先輩には何が何だかわからなかった。

だが、美和は直感した。

そして、その足でそのまま工藤征二の部屋を訪ねた。

「失礼します、工藤さん」

カーテンを開けると、そこでは征二が百円均一で買ったプラスチック製の花瓶に花を挿していた。

キランソウの花。確かに今朝、斎藤さんが頭に飾っていたものだ。

「その花、デイルームに寄付してくれたんじゃないですか」

美和は言ってから、しまった、と元来の己の不器用さを呪った。

征二はじろりと美和を見た。

「……違います」
「ごめんなさい、私、勘違いしてて」
「別に、構いません」

特に怒っているというわけではなさそうだ。

だが征二はどこかバツの悪そうな顔をしている。

「……その花、どうやって返してもらったんですか」

まさか征二が無理やり、斎藤さんから奪取したとは思えない。

「………」

征二は沈黙して作業を続ける。

美和は一人で空回っている自分が情けなかった。

美和がリアクションに困っている間に、征二は花を飾り終えた。そして美和を気にも留めず、花瓶を持って部屋を出た。

……どこにいくんだろう?

もしかして。

美和の予想は的中した。征二は花瓶を持って、ナースステーションに寄った。そして、

「147号室の斎藤さんへ、これを届けてください」

日勤帯の看護師にそう告げた。

日勤の田島さんが、看護日誌を読むのを中断してそれを受け取る。

「斎藤さんに、これを渡せばいいの?」
「はい」

そう言って征二は、デイルームの中央にある椅子に腰かけた。

美和は今朝のことを鑑み、田島さんと一緒に斎藤さんへ花を届けることにした。

デイルームからだと、斎藤さんの泣き声がよく聞こえてしまう。他の患者は何事かと驚いている人も数人いたが、その中でもアキは怒っていた。征二に対してである。

アキは征二の姿を発見すると、ずかずかと近寄って隣の席に座った。

「おばーちゃんの花、あんた取ったんだって?」
「………」
「弱い者イジメかい」
「………そういえば」
「何よ」
「中庭のシロツメクサも見頃らしいね」
「はぁ?」
「……雨の心の欠落が、薫風を責めることはできないだろう」

その返答に、アキは足を組み換えながら、不機嫌な声で、

「どうかしてるわ、あんた」

と吐き捨てた。もっとも、だから『ここ』にいるんだけどさ、私もあんたも! とアキは内心で付け加えた。

征二は沈黙して、お茶を一口飲んだ。

その緩慢な動作にアキが勝手にイラつくのだが、段々とそれが意味のないイラつきだとわかると、椅子に身を預けて「はー」とため息をついた。

そうこうしていると、今度は斎藤さんの部屋から笑い声が聞こえてきた。

「まーぁ、おほほほ」

と、甲高い上機嫌な声である。確かに、斎藤さんのしゃがれた声だ。

「あの人が来てくれたのよ。待っていてくれたのよ」
「斎藤さん、その花……」

美和が言いかけると、斎藤さんはウットリした顔で

「神幸、まさにここにあり」

しきりに「シンコウ」と言いながら、花をしわしわの手で愛でている。

よく見ると、花びらが先ほどよりも若干元気になっているようだ。

デイルームから勝手に持っていかれた時より、しっかり花瓶に挿されているおかげだろう。

「……あなたを、待っています」

斎藤さんは独り言のように言って、幸せそうにいつまでもキランソウを見ていた。


パタパタと、美和がデイルームに戻ってきた。そして、丸い目をさらにくりっとさせて、征二の顔を覗き込むようにして、ぺこりとお辞儀した。

「工藤さん。ありがとうございました」
「いえ……」

征二は相変わらず無表情で、彼の真意が美和には計れなかったが、しかし確実に『伝わったもの』はあった。

それだけで十分だと、美和は思う。

横では、アキが不思議そうな顔をしていた。


夜勤明けに漕ぐ自転車で、初夏の風を切る。これは極上の贅沢だ。病院からの坂道を下り終え、交差点で信号を待っていると、足もとのシロツメクサがふと気になった。

風に吹かれて小さくそよいでいる。

斎藤さんの笑顔が目に浮かんだ。

「あなたは、キランソウの花言葉をご存じ?」

そういや私は、シロツメクサの花言葉も知らないや。あの花の花言葉って、なんなんだろう?

征二は、いつものように午後2時過ぎを楽しみに待っている。キランソウに込めた思いを代弁するかのように、斎藤さんは窓辺で5月の陽光に佇んでいる。アキは今朝のことなどすっかり忘れて、デイルームで雑誌を読んでいた。


家に帰った美和は、さっそくインターネットでキランソウ、と検索した。

「あ……」

そこに書かれていた花言葉に、美和は思わず感嘆のため息をついた。

『あなたを、待っています』

第二話 有理関数 へつづく