第二話 有理関数

工藤征二の朝は早い。起床時間より一時間も前にデイルーム(患者が日中を過ごす場所) 入口で本を読みながら、鍵が開くのを待っているのだ。その日の宿直の高橋美和は、不眠を訴えてナースステーションに来た女性の対応をしてから、扉越しに声をかけた。

「工藤さん。おはようございます。今日は誰の詩集ですか」
「……おはようございます」

ニコリともせずに征二は返す。

「中原中也の『山羊の歌』です」
「そうですか」

美和が日誌の執筆に入ろうとすると、もう一人、そこに現れた人物がいた。

「おはよう」

そこにいたのは征二より5歳ほど年上の男性だった。枕を片手に『あどけない』表情をしている。

先ほどとは打って変わって征二はふっと笑いを浮かべ、自分より背の高いその男性の頭をくしゃっとなぜた。

「おはよう、『秀くん』」

珍しく征二の口調が優しい。それは、その男性が『秀くん』と呼ばれたことに所以する。

「ねぇ、何を読んでいるの?」

秀くんの問いに、しかし征二は本から目を離さずに、

「君にはまだ難しいよ。感じることはできるかもしれないけどね」
「ふーん」

秀くんは不思議そうな顔で征二の右袖を引き、

「お散歩、行こうよ」
「ここが開いたらね」

征二は詩集の文字列を指でなぞり、

「……感じることはできるかもしれない、か」

口角をくっと上げ、まるで朝に似合わない表情を浮かべ、

「愛するものが死んだ時には―――」

中原中也の『春日狂想』の一説を読みだした。

「自殺しなけあなりません。」

秀くんはキョトンとしている。

「愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない。」
「せいじくん、どうしたの?」

その場の異変を察知した美和が、ナースステーションから声をかける。

「工藤さん。やめてください。起床時間前です、静かにしてください」
「秀くん、君は何も悪くないよ」
「うん!」

美和はナースステーションを出て、直接注意をしようと駆け寄った。

「お願いです。あと少し待っていただけませんか」

征二はふっと息を吐き、美和の言葉には反応せず、しかし詩を朗読するのをやめた。

「高橋さん」
「はい?」

不意に目を合わされ、美和はびっくりした。

「箱庭にも、朝は来るんですね」
「えっと……」
「いいんです。業務に戻ってください」
「はぁ」

秀くんが楽しそうに枕を抱きしめている。


小鳥の鳴き声が聞こえる。まるで箱庭の住人をあざ笑うように、美しい声で鳴いている。ここにも等しく朝はやってくるのに、それを祝福する者はいない。今ある生を嘆くか、憂う者ばかりだ。高橋美和もまた、そんな人間の一人かもしれない。

こんな場所、無ければいいのに。たとえあったとしても、人々は『卒業』すべきなのだ。『箱庭』だなんて表現は欺瞞で、精神科病院は精神科病院だ。いつまでも人が居て人生を費やすべき場所ではない。

起床の時間になると、美和は病棟内の電灯のスイッチを入れた。それと同時に、コンコン、と扉をたたく音がしたので、美和は「あっ」と声を出した。。

「高橋さん。時間です」

征二が催促するので、美和は急いで鍵を持って扉へ向かった。

「お待たせしました。散歩、いってらっしゃい」
「ありがとうございます」

秀くんが征二の手をつかんだ。

「僕も行く!」
「いいよ」

美和は一瞬だけ引きつった顔をしたが、すぐに立て直して

「朝食は7時半です。それまでに戻ってきてくださいね」

そう『指導』した。


【カルテNo.6543 吉田秀典】

31歳2カ月、男性。解離性障害

元C大学大学院数学専攻。研究室内にて突如「逆ラプラス!」と叫び、そのまま意識消失。その後、目覚めたときには自らを「秀くん」と名乗り、頭脳レベルが5歳児程度となった。建前は任意入院だが、5歳児に「任意」の意味が分かるはずもないため、実質強制入院である。


「え、吉田さんが、ですか」

連絡を受けた美和はびっくりして持っていたカルテを落としかけた。看護師長は頷き、

「ええ、ご家族がいらっしゃるわ」
「そうですか……」
「2時だから。面会室の準備、よろしくね」
「はい」

この場所は決して憚られるものではない。否、そうであってはならない。しかしながら、やってくる人々はしばしば忌避する。その存在意義、そのものを。秀くんの家族も例外ではなかった。

厳しい表情で先ほどから沈黙しているのは、吉田家の父だ。その隣で、申し訳なさそうに縮こまっているのは、母である。そう、秀くんのもとに、両親が久々に面会に訪れたのだ。

「……秀典。調子はどうなんだ」

ゆっくりと父親が口を開く。秀くんといえば枕を抱きしめたまま、不思議そうな顔をしている。母親は、

「秀典、お父さんが聞いているじゃない。ちゃんと答えなさい」
「なにを?」
「ふざけているのなら、いい加減にしろ」
「なにが?」

父親はため息をつく。母親はスンスンと声を殺して泣いている。

こんなはずじゃなかった。両親の想いは複雑だ。C大学の院にまで行かせた。数学に関しては天才的だった。自分たちの、誇りだった。しかし、彼は、今や体の大きな5歳児だ。

どう接していいのか、いや、どう拒絶したらいいのかが、わからない。

愛情なら注いだはずだった。なのに、どうして。

「ねぇ、パパぁ」

秀典は枕をぎゅっとして、

「怒らないでよぉー」
「……いつまでも、ここにいるつもりなんだな」
「ヤダよ、一緒に帰ろうよー」
「無理だ。無理なんだ。わかってくれ」

それを聞いて泣き出す秀典。母親がヒステリックな声で、

「あんたみたいな子、どうしたらいいっていうの!?」

その叫び声を聴いて、美和が慌てて面会室にすっ飛んできた。

「どうかしましたか!?」
「いえ」

父親が制止する。

「何でもありません」
「そう、ですか」

母親が気まずそうにしている。秀典は怯えきっていて、硬直しているようだ。

「もういい。来るだけ無駄だったな」

父親がそう言い捨てると、カバンから数冊の本を取り出し、

「力が鈍るだろう。少しでもいいから読め」

そう秀典に言った。父親が置いたのは、数学の本だ。

「いらない」

ボソッと、秀典は言った。

「ピカチュウのぬいぐるみが、欲しい」
「………………」
「帰りましょう、あなた」
「ああ。看護師さん、ちょっといいですか」

不意に指名されて美和は少しだけたじろいだ。

「何でしょうか」
「こいつは、ここでずっと置いてやってください。入院費なら心配いりません。お願いします」
「―――」
「お願いしますよ」
「………………」

父親は母親を支えるようにして、そのまま背を向けた。秀典は枕をぎゅっとしたまま、首をかしげて二人を見送った。

両親は他の患者には目もくれず、デイルームを直進する。そのまま挨拶もせずに去っていく。

その様子に、征二が冷たい視線を送っていた。


両親が帰ったあと、面会室に一人残された秀典はしくしく泣きだした。5歳児が両親と離れ離れで寂しがるのは、「ごく普通の」反応だ。その面会室に、征二がやってきた。

「泣いてるの」
「うん……」
「悲しいの」
「うん」
「そう。俺は、虚しいよ」
「………ねぇ、お兄ちゃん」
「何だい?」
「僕、こんな難しい本じゃなくて、絵本が読みたい」

ばっかみたい。皆川アキは明らかに秀典を見下していた。

あんな奴と同じ病棟にいるだなんて、なんだか私までおかしくなったみたいじゃない。いや、実際、どこかおかしいんだろうけど、私はあいつとは違う。ちょっと家族が見舞いに来るからって調子に乗っちゃって。ホント、ムカつく。


次の日の作業療法中の出来事だ。革細工の仕上げに入っていたアキは、神経を尖らせていた。ここで失敗すれば、売り物にならなくなる。まぁ、売ったところでお駄賃にもならないけど。

「もう少しですねー」

作業療法士が話しかけてくる。今、集中しているんだから話しかけないで!

すぐそばでは、塗り絵に興じていた秀典が、クレヨンを落としてしまった。

「あっ、黄色、逃げ出した!」

黄色のクレヨンを追いかけ、バタバタと走り出した秀典。作業療法士が「あ!」といった刹那、注意するよりも早く、秀典の右腕にアキの左腕が当たった。最後の仕上げで、アキの作品は大失敗に終わってしまったのだ。

「あー、あーあ。残念ね、皆川さん」

作業療法士の言葉に、失敗に終わった作品の有様に、そして目の前ではしゃぐ秀典に、アキの怒りは爆発した。

アキは秀典に鬼気迫る表情で詰め寄り、

「何なのよ、あんた!!」
「えっ?」

ビックリして振り向く秀典。黄色のクレヨンはまたしても床に落ちる。

「迷惑なのよ!! どっか行ってよ、あんたと同じ酸素なんて吸いたくない! 死ね!」
「ちょっと皆川さん、ひどいんじゃない?」

作業療法士がなだめるも、アキは怒りが治まらないらしく、怒鳴り散らした。

「死ね、あんたなんか知らない!!」

アキのヒステリーに触発されたのか、ショックのあまりパニックになる秀典。

「死ねっ、死ねっ!」

アキのヒステリーも、それはそれで病気なのだ。だが、あまりにも鋭利で、時に人をひどく傷つける。アキ自身にも自制が利かないのだ。

「死ね」。その言葉から逃れるように、秀典は部屋を飛び出した。

「あ、ちょっと!」

作業療法士は驚いて、後を追いかけようとし、しかしその前に、

「皆川さん。皆が聞いていましたからね!」

とアキを叱りつけた。

「ふん。保護室でもなんでも行ってやるわよ。怖くなんかないから!!」


外来受付の前を、全速力で秀典が走っていく。受付の事務が「あれ?」と顔を見合わせた。作業療法士が息を切らせて後からやってきて、

「あの人、逃げ出したの、今追いかけてて……」
「えっ、あっちって裏門ですけど、今の時間は外来の人向けに開放してますよ」
「まずいなー。外に出られたらどうしよう」
「手分けして探しましょう。警察にだけはわからないように」

この病院は都内のやや郊外に位置している。住宅街もあって、スーパーマーケットやカラオケボックス、ゲームセンターまである。娯楽なら事欠かないだろう。しかしそれだけに、探す場所も手間も増えてしまう。

医療スタッフを集められるだけ集めて、秀典の捜索が始まった。


看護師長はあきれ気味に、ぼやいた。

「スリッパなのに、よくもまぁ逃げ出せるだけのスピードが出たわよね。体力、有り余ってたのかしらね」

美和はムッとした。

「違います、きっと」
「何が?」
「それだけきっと、悲しかったんです。吉田さん、悲しかったんです」
「あ、そ。どうでもいいけど、昨日の夜勤簿、早く出してね」
「……はい」

やはり、こんな場所にはいつまでもいてはいけないんだ。美和は自分の中の違和感を抑えきれずに、深いため息をついた。

他の患者の対応をしながらも、秀典のことが気にかかっていた美和だが、多忙さが彼女に秀典を探すいとまを許さなかった。捜索に駆り出されたのは、秀典が暴れえることを想定して男性スタッフのみだったのである。


病院の近くに、区立の図書館がある。近くの大学の学生や地元住民が主な利用者だが、病院の患者もたまに利用をしている。工藤征二もその一人だった。図書館スタッフは征二の身元を知ってか知らずか、丁寧に接してくれる。

平日の昼間は利用者が高齢者が多いので、征二は目立つのだ。

「児童文学書はどこのコーナーですか」
「3のEです。珍しいですね、今日は詩集じゃないんですね」
「……ちょっと、必要で」
「そうですか」

余計なことは聞かない。この距離感が、征二にはちょうど良かった。

3のEに向かい、ノルウェーの児童文学書を手に取る。愛らしいモグラのキャラクターの絵本だ。これでいい、いや、これがいいだろう。

「どうかな、秀くん」
「ありがとう! 買ってくれるの?」
「借りるんだよ。後で、ちゃんと返すんだよ」
「わかったー」

涙で汚れた顔を、パッと明るくした秀典。そう、秀典は一目散に征二のもとへ向かった。征二には事情はわかりかねたが、わかる必要もないと判断し、また秀典が征二のもとにやって来られた理由も特には問わなかった。問うことで満たされるのが、 自分の粗野な好奇心だけだと心得ているからである。

『もぐらくんのピクニック』というタイトルの絵本を手に、秀典が上機嫌で病棟に戻ってきた。

「あ!」

鬼の首を取ったような顔をしたのは、捜索に当たっていた男性看護師だ。

「いたいた! いたよ~、もうさ、どこに行ってたんだよー!?」

患者への敬意がまるでない。それもまた、美和がこの場所に違和感を覚える理由である。

「本が、いっぱいのところ!」

元気に秀典は答えた。


その日の夕飯が終わってから、征二は静かに秀典に話しかけた。

「本、面白いかい」
「うんー。もぐらくんがねー、イチゴを食べるところ、好きー」
「そう。ところで――」

征二の眼光が鋭くなる。

「有理関数の逆ラプラス変換は、分母が因数分解されていれば必ず計算できるんだよね?」

それを聞いた秀典は、器用に目元だけを緩ませた。

「なんのこと?」

第三話 エラー へつづく