第三話 エラー

あの日、夏の日差しを照り返した白球は、虎谷幸広をあざ笑うように飛んでいった。試合終了のサイレンがワンワン鳴っている中、泣き崩れるチームメイトを横目に、幸広は不思議な気分でマウンドに立っていた。

あ、終わったんだ。

毎日汗をかいて息を切らせたことも、泥だらけになって練習したことも全部、夢のようだった。いや、もしかしたら夢だった? 最初から全部。夢だったのかよ。誰か、教えてくれよ。

『解説の里井さん。試合評をお願いします』
『いやぁ、まさかの終わり方でしたね。フォースアウトも狙えた位置からのまさかのワイルドピッチ、それがその後の味方のエラーを誘ったのでしょう。これだから野球は怖いですね』
『エラーはレフトの雪林くん、ですね。3年生。悔いが残るでしょうね』
『こういう経験を糧に、今後頑張ってほしいですね。そのための高校野球ですから』

セミが鳴いている。ギラギラ太陽。纏わりつくような空気。

「整列っ!」

西條学園野球部の朝は、声出しから始まる。悔しがっている暇があったら、練習する方がマシだ。そんな監督の方針だ。敗戦の翌日からもう、練習は始まった。

レフトがエラーをして敗退したのは、甲子園の2回戦だった。

地元の、あるいは千葉県に郷愁の念を抱く人々の期待を一身に背負い、西條学園野球部は意気揚々と甲子園へと向かった。初出場だった。地元大会でも台風の目と言われ、散々もてはやされた。虎谷幸広は、その受けた期待の8割方を担っていたといっても過言ではない、将来を有望されたピッチャーだった。

打ち取った、と思った。完全に勝ったと思った。思ってしまった。それが、他でもない致命傷となった。

白球は幸広の頭上を越えた、単なるレフトフライだった。そのはずだった。ところが、同じく勝利を確信したであろうレフトポジションの雪林が、お手玉の挙句、落球。

その隙に二塁走者が生還。雪林のカバーに入ったセンターが「バカ野郎!」と叫んだかんに、ホームベースに滑り込んできたのは、打撃選手。

9回裏、1―0からの逆転サヨナラ負け。

幸広の夏は終わった。終わっても、明日が来る。嫌でも未来があるんだ、俺達には。そういう位置に据え置かれている。夢を見なければならない。時に夢を与えなければならない。そういう存在なのだ。

周囲は甲子園の話題を避けるようになった。まるで、腫物のように幸広に接した。


【カルテNo.9934 虎谷幸広】

18歳7カ月、男性。神経症。

極度の不眠から神経症を発症。高校を不登校となり、通院投薬するも改善せず。自傷行為が止まらないために任意入院。


最初は、眠りが浅いくらいだった。母親はすっかり心配して、「顔色が悪い」「食欲が減った」と言ってくるが、本人にはそこまで心配されるつもりはなかった。

ある時、古文の授業でのことだ。

『せをはやみ』

「この意味を現代語訳しなさい、虎谷」
「……わかりません」
「何度も出しているのに? しょうがない奴だな」

ほんのちょっとした無神経さは、時に人の逆鱗に触れることも、ある。

『しょうがない奴だな』。その言葉が、幸広の心に深く突き刺さった。

「えー、解説する。『瀬の流れが速いので』、という意味になる。いいか」
「よくない」
「何だって?」
「よくない……」

幸広の無気力は日を追うごとにエスカレートしていった。

秋口になって、周囲の誰もが甲子園の話題を自然としなくなる頃になってようやく、幸広は自覚した。自覚してしまった。

明かりもつけない部屋で、自慰行為のあと、ペンケースからシャープペンシルを取り出すと、その先端を何度も右腕に刺した。痛みはあったが、心地よかった。このまま腕が台無しになれば、もう誰も俺に「投げろ」なんて言わない。傷だらけになった腕を鏡で確認すると、幸広はクスクスと笑い出した。同時に、彼の頬を二筋の涙が伝う。

なんだろう。勝手に期待して、勝手に放置して、勝手に同情して。身勝手なのは、誰なんだろう。泣けてくるし、笑えてくる。笑えてくるし、泣けてくる。努力は人を裏切らない。確かにそうだ。しかし、努力に期待を寄せてきた人々は、裏切る。

切ってやる。全部、絆だのそういった類のなんだのを、切り刻んでやろう。そう、こうやって。

幸広は血まみれになった右腕を舐めとった。興奮はしない。むしろ心は穏やかだ。

もう、投げられないでしょ? 無理でしょ? 誰も、期待なんてしないでしょ?

「かっとばせー、虎谷」

呟きはどこまでも虚しくて、幸広の空虚を助長する。血で汚れた右腕を練習で使っていたタオルで拭き取ると、何十か所にも及ぶ傷跡が浮かび上がる。

『ここでランナーホースアウト! 3アウトチェンジです』

「幸広!」

母親の悲鳴が聞こえても、どこか別の星での出来事のように感じる。

「何やってるの!」

責めるんじゃなくて、受け止めてほしかった。まぁ、そこまで期待する方が間違っているんだろうけど。

本当に、笑える。

「幸広、腕を見せなさい」
「……ふふっ」
「何よ、どうしたのよ」
「あはは、あははははははははははは」

笑い出したら、止まらなくなった。その後、幸広は痙攣を起こすまでひたすら笑い続けた。引きつけを起こした幸広は、気の動転した母親の呼んだ救急車で運ばれ、そのまま『箱庭』の住人とになったのである。

――そういう経験談を、だ。

「青春だねぇ」 の一言で片づけられては堪らないではないか。

「青春なんて言葉は嫌いです。都合よく使われ過ぎてる」

憮然してと幸広は言う。

「そうは言ってもさ。まぁいいや、さすがは元球児だよねー。肩の強さはチーム一だわ!」

幸広の投げる球を受け止めるのは、男性看護師だ。幸広はポツリとこぼした。

「作業療法は退屈で。体を動かしたくてもラジオ体操じゃちょっと……」
「それもそうかもね。物足りない?」
「走りたいです。思い切り」
「俺とのキャッチボールもつまんないかなぁ」
「いえ、えっと」

幸広の投げた球は、なだらかな軌道を描いた。

「もう一度でいいから、野球がしたいなって」
「そう」

その様子を、桜の木の下で座って読書をしていた工藤征二が聞いている。

看護師が球と一緒に言葉を返した。

「夢が、君にはあるんだね」
「夢、か。それもあまり好きな言葉じゃないな」
「どうして?」
「見るだけ辛いから」

夏の日、木っ端微塵に砕けた夢。その欠片を、今更拾えというのか? それは幸広にとって、あまりにも辛く、残酷なことだ。

幸広は時々幻聴を聞く。精神的な負荷がかかると、甲子園のサイレンが脳内に鳴り響くのだ。そして、必ずと言っていいほど衝動的に自傷行為に走る。

「次、腕を切ったら保護室行きだよ」。

主治医からは、そう警告されている。

傷だらけの幸広の腕では、かつてのスピードは出ない。それでも、看護師は受ける球に幸広の想いの重さを感じずにはいられなかった。

「虎谷君。そろそろ、今日は終わりでいいかい」
「はい。ありがとうございます」

看護師は軽く会釈して去っていった。残された幸広は一人で球を弄ぶように上に放った。放物線ばかりは美しく、幸広のもとに帰ってくる。球は、自分を裏切らない。そう、裏切るのは、人間だけだ。

「はー……」

幸広がため息をつくと、ちょうど時計が12時を指した。昼食の時間。それは、中庭の解放時間の終了も意味する。病棟に戻らねばならない。

「虎谷くん」

ふと、呼び止められて振り向くと、征二がゆっくり近づいてきていた。

「俺、学生時代に陸上やってたんだ。種目は違うけど、あの看護師よりはいいキャッチボールができると思うけど」
「えっ、工藤さん、陸上選手だったんすか?」
「まぁ、少しだけど。中距離ランナーだったんだ。だから、走れないストレスはよくわかる」
「へぇ……」

幸広はまじまじと征二を見た。普段は読書している姿しか印象にないので、意外だったからだ。見た目だって白い方だし、何より細い。ギャップに驚いているのだ。

幸広の純粋な好奇心のこもった視線に、征二はクスリと笑った。

「『箱庭』じゃ退屈でしょ?」
「まぁ、でもしょうがないんです」
「ふーん」

昼食だけではなく、ここではあらゆる日常が管理されていて、時間に敏感にならざるを得ないのだ。そんな場所で、何をどう「治療」するというのだろう。

「もう行かないと、叱られるし、スミマセン」
「午後は2時から解放だから、その時にあの桜の木の下で待っているから」
「え?」

訝しがる幸広を横目に、征二は病棟へ戻っていった。


その日はのびきったキツネうどんが昼食のメニューだった。いつもならぺろっと完食する幸広だが、先刻の征二の言葉が気になって、あまり食が進まなかった。「虎谷さん、食欲ないわね。珍しいじゃない」と女性看護師に『観察』されてしまったのだが。

午後2時が近づいて、気になってあの桜の木に向かおうとした時だ。幸広がコートを着込んでいると、

「虎谷さん、ちょっと何しているの? 今日は先生の診察がある日でしょう」

そう看護師に言い咎められた。診察の日など、希望した覚えはない。病院の都合で決められていることなのに、どうして叱られるのだろう。

「あの、診察終わったら、中庭行っていいですか」
「それはご自由にどうぞ。でもね、先生はお忙しいのよ」
「………なんだよ、それ」
「虎谷君、何か言った?」

看護師は威圧的な態度で問いかける。

「……何でもないです」

幸広はしぶしぶコートを脱いでナースステーションに入った。時間が気になってしょうがないのか、ソワソワしている。その様子が主治医の目には「不安定」に映ったのか、幸広に説明もなく薬が増量された。

「念のため、ね」

そう言われて、その場で水に溶かして飲むタイプの薬を飲まされた。昼食が少なかったため、薬はあっという間に効果を発揮した。

幸広の思考が鈍っていく。否が応でもおとなしくなっていく。そう、治療という名目で、幸広の行動は制限され、管理され、庇護されてやがて弱っていく。

「桜の木……」

そう呟く間にも、時間は容赦なく過ぎていく。

「部屋に戻って、横になりなさい」

指示という名の命令をされ、幸広は力なくナースステーションを出た。


時間になっても幸広が現れないので、征二は病棟出口にあるノートに目を通した。幸広の外出記録はない。

「谷口さん」

征二は近くで床掃除をしていた看護助手を呼び止めた。

「虎谷君はデイルームにもいませんよね。どこへ行ったか知りませんか?」
「さぁ……。お約束でも?」
「いえ、特には」

看護助手が掃除の手を再開すると、征二は幸広の部屋へと直行した。

歌が、聞こえた。どこにでもありそうなメロディー。そう、耳なじみのある曲調は、いわゆる学校の校歌だ。

幸広が朦朧とした意識の中で、鼻歌で校歌を歌っているのだ。

「ちょっとー、虎谷君、静かにしろよー」

向かいのベッドの男性が苦情を申し立てるも、その声は届かず、幸広はひらすら校歌を歌っている。

征二はその男性を制して、幸広のベッドのカーテンを開けた。すると、幸広は涙と鼻水を流しながら、弱々しくベッドに横たわっていた。

かつて多くの人の期待を背負って甲子園のマウンドに立ったとは思えない姿だった。

「虎谷君、何があったか、よかったら聞かせてくれ」

征二は静かに問いかける。水に溶かすタイプの薬は、即効性もあるが副作用も強い場合が多い。

「今じゃない。『あの日』、何があったの?」

その問いかけに、幸広はゆっくりと瞬きして、

「――レフトが」

レフトが、落球した。

落ちたのは、そう、白球だけではなかった。


「何だよ、期待させやがって」
「でも頑張ったよね、虎谷君」
「プロ入りなんて大口叩いてさ」
「でも実際、あの試合にはスカウトが来てたって噂だし」
「彼一人のせいじゃないよ」
「そもそも高校生だしね」
「2回戦どまりかよ」
「今年の夏も終わったなー」

うるさい。
うるさい。
うるさい。
うるさい。うるさい。うるさい!!

脳内でクロス再生される、観衆の声と球場のサイレン――――

「うるさい……」

本当は、叫びたかった。でも、誰もそれを許してくれなかった。

幸広は泣きながら校歌をまた歌い始める。

♪ 青空の 果てなくあって 夢もまた
希望の限り 歩を進め
われらが青春の日々 喜びよ ♪

その様子を、征二は静かに見守る。傷だらけの右腕にそっと手を添えて。

やがて疲れたのか、幸広の歌声がやんだ。不思議な沈黙があってから、口を開いたのは征二だった。

彼は優しく語りかける。

「虎谷君。今度、一緒に思い切り走りに行こう。キャッチボールもいいね。その約束をしてもいい?」
「…………」
「その日が来るまでの、『約束』をしよう」

そう言って、幸広に金属製のしおりを手渡した。それは、使おうと思えばいくらでも凶器になりうる。自傷行為だって可能だ。しかし、しおりは記憶を留め置くためのものだ。征二にはそれがよくわかっている。

「いいかい。約束が人を裏切るんじゃない。人が約束を破るんだ。でも、その痛みを君は知っているはずだ。何をどうしてもいいけれど、凡フライ球と命は落としちゃいけないよ」
「……」

歌い疲れた幸広は、そのまま寝入ってしまったようだった。征二は幸広の床頭台にしおりを忍ばせると、ふっと息を吐いて部屋を後にした。

しおりをどう使うかを、幸広に託した。別に構わないのだ、あれを折り曲げて自傷行為をしたとしても、教科書用に使っても、幸広自身の選択なのだから。

不自由極まりない箱庭の中で、選択する自由を得ることは、「治療」よりもよほど尊い。

「自由こそ治療だ」とは、イタリアの精神科医師バザーリアの言葉だが、果たして征二がそれを知っていたのかはわからない。

箱庭では今日も、どこかが、何かが違う『日常』が繰り返される。しかし征二の存在は、その日常にヒビを入れるもかもしれない。

第四話 ライオン へつづく