第五話 手紙

彼の眼は爛々として、すでに既存の世界を映していない。彼が望んだ世界が、目の前に広がる。それは、背筋が凍るほどに美しく、また残忍だ。

「ふふふ…………」

時刻、午前3時。彼だけが認識しうる世界で、彼はどこまでも幸せなのだ。

――もし、君の生存を最初に知るものがあれば、それは間違いなく俺だよ。

「ぁははは……ッ!」

彼の目の前で、赤い目の天使に捧げられる彼女。歪んだ讃美歌が彼の脳内でリピートされる。

これで君は永遠になれる。俺だけの永遠に。

間違いない、やっと見つけた――

「僕らは今度こそ幸せになろう、ユイ」


その日も箱庭では、時間を持て余した人々が、めいめいに暇つぶしに励んでいた。看護師の高橋美和は、先輩看護師からの申し送りに首をひねっていた。

「まだ、 10月ですけど」
「何が?」

先輩の但馬が、書類を整頓しながら美和に問う。

「これ、工藤さん。バイタルは異常ないんですが、ここの申し送りの意味がよくわからなくて」
「どこ?」
「えーと、睡眠時間を十分に取れず、クリスマスプレゼントを欲しがっていた、ってくだりです」
「あー、それね。ごめん、ちょっと端折ったんだわ」
「えっ?」
「他の患者からの苦情があったのよ」
「苦情……?」
「そ。夜中に起きてぶつぶつ呟いてて、同室の患者から『うるさい』って」
「それが、なんでクリスマスなんですか?」
「忘れちゃった? 彼の急性期の妄想のこと」
「あ」


【カルテNo.8655 工藤征二 クドウセイジ 二十三歳、男性。統合失調症。大学在学時に激しい幻聴と妄想を発症。主にキリスト教に肖った幻覚を見る。文学に造詣が深く、妄想にもその要素が強く現れる。】


俊一は仕事帰りの飲み会を断って、都内の某精神科病院へと車を走らせていた。カーラジオからは流行歌。アイドルソングらしく、甲高い声がやや耳障りだ。

ボリュームを絞ると、赤信号に捕まり、俊一はため息をついた。

弟の入院先から、仕事中に電話があった。仕事中に出るわけにはいかないので、留守電にメッセージが入っていたのだ。

『工藤さんの携帯でよろしいでしょうか。ソーシャルワーカーの滝嶋と申します。征二さんの件で、お伝えしたいことがあるので、お手数ですが、ご訪問いただけますでしょうか』

しばらく弟の顔を見ていない。気になっていないわけではない。むしろずっと、胸に刺さり続ける棘のように、疎ましくも懸命に、征二のことを想ってきた。

しかし、俊一には、弟へどういう顔を見せればいいのかがわからなかった。

要は、逃げているのだ。

恐らく、征二は調子を崩しているのだろう。ソーシャルワーカーから呼び出されるのは決まって、そういう時だからだ。日々の忙しさにかまけて、弟のことを見て見ぬふりをしてきたと責められてもしょうがない。

病院に着くと、来客用の駐車場に車を停め、俊一は足早に病棟へと向かった。

ソーシャルワーカーの滝嶋が、俊一を出迎えた。無機質を感じさせる事務室の奥に、ソファがしつらえられている。滝嶋は促し、俊一が腰かけた。

「ご足労いただき申し訳ありません」
「いえ。ご用件を」
「早速ですが、これです」

滝嶋が俊一に見せたのは、バラの描かれた封筒だった。

「これは?」
「征二さんあての手紙です」
「開封済みに見えますが」
「ええ……」

滝嶋は気まずそうに返答する。俊一はすぐさま、消印を確認した。その日付は、一年も前のものだ。

「どういう、ことですか」
「……主治医の、判断です」
「それがなんで今になって―――」

俊一は言葉を止めた。愚問だと気付いたからだ。滝嶋は、慎重に言葉を選んで伝えている様子である。

「征二さんは、今、かなり調子を崩されています」
「…………」
「保護者のご判断が欲しいのです」

俊一は眼光鋭く、「責任転嫁ですか」と咎めるような口調になる。

「決して、そういう訳では」
「いいでしょう」
「えっ」

滝嶋の焦りをよそに俊一は、静かに告げた。

「ですがその前に、その手紙を、読ませていただきたい。当然でしょう」
「はい……」

征二へ

とても大切なことだから、手紙を書きます。メールだときっと、伝わらないから。
私、留学することにしました。行先はイタリアです。
知っていますか? イタリアって、精神病院がないんだって。そのことをもっと知りたいから、勉強してきます。きっと、私たちの将来の役に立つから。
いきなりでごめんね。でも、いつも征二に逢いに行っている病棟の人たちを見ていたら、このままじゃいけないって思いました。私は法学部だったから、医療とか福祉とかよくわからないんだけど、そういう問題じゃないの。
9月3日の飛行機で、成田から発ちます。15時のフライトです。もしも外出の許可が出たら、見送りに来てください。
身勝手を言ってごめんなさい。
でも、私たちが一歩進むために、決めたことです。見送りに来てくれたら、そこで征二と交わしたい約束があります。空港で待っています。きっと、来てくれると信じています。

ユイ

「なんてことだ……」

俊一はほとんど独り言のようにそう言った。滝嶋は嫌な汗をかいている。俊一は、どうにか声を荒らげないよう努めた。

「主治医のご判断と仰いましたね」
「はい」
「征二はこの手紙の存在を、知らないということですね」
「ええ」

俊一はこぶしをぎゅっと握った。

「弟は今、どんな状態なんですか」
「独語や空笑がかなり激しい状態と聞いています」
「……」
「それでもお会いに、なりますか」
「当たり前です」

やや語気が強くなったのが、俊一自身にもよくわかった。滝嶋は、ぐっだりとこうべを垂れ、

「病棟へ、連絡してきます」

そう言うと、足早に去っていった。

滝嶋の姿が見えなくなると、事務室に一人残された俊一は、足を一回だけ、強く床に叩きつけた。


内線連絡で、征二の兄が来たという一報に、美和の心はざわついた。俊一のことは知っていた。高校教師をしているらしい。征二から聞いた話では、日本史を教えているのだという。厳しくも優しい兄だと言っていた。

しかし、今の征二の状態を知っているだけに、兄がどう征二を見るのか、その視線が怖かった。

「高橋さん」

呼び止められて、ハッとした。藤沢浩子が不安発作を訴えてきたのだ。

「わかりました。デパスでいいでしょうか」
「ねぇ、あの人だれ?」
「え……」

浩子が指さした先には、滝嶋の姿があった。近くにいた先輩看護師が代わりに答える。

「あー、PSWよ。最近、ウチの病棟の担当になったんだっけ」

浩子は怪訝そうな表情になる。

「もしかしなくても、工藤君のこと?」
「そうですね……」

美和は、そう答えるのが精いっぱいだった。滝嶋は険しい表情でナースステーションへ近づいてきた。

「工藤さんは、どちらに」
「先ほどまでデイルームにいらっしゃいました」
「困ったものね」

口を挟んできたのは、浩子だ。

「完全に自分の世界に閉じこもっちゃってるもの」
「…………」

滝嶋はため息をつくと、征二を探し始めた。病棟内を歩けば、様々な患者に出会う。笑いかけてくる者、相談を始める者、睨み付けてくる者、無関心な者。

皆、救いを求めているように見える。しかし、自分などにではなく、医師などにではなく、ましてや神などにではなく。

「―――あ」

トイレや風呂場、洗面場など水回りの集まる空間の片隅で、うずくまっている男性がいた。それを指で秀典がつついている。秀典は滝嶋を見るや否や、ぱあっと明るい笑顔を見せた。

「ねぇ、『何してるの』って、きいてね!」

無邪気にそう言うものだから、滝嶋は仕方なくそれに応じる。

「……何、してるんですか」
「面白いこと!」

滝嶋はすぐに気づいた。秀典がつついているのは、征二だったのだ。

「工藤さん」
「無駄だよー」

秀典が答える。

「お兄ちゃん、今、故障中!」
「『故障中』?」
「そ。見てよ」

滝嶋が秀典の言われるままに征二の顔を見ようとして、息を飲んだ。まるで空洞のような瞳。何かを映すことすら拒絶するようなその色。全てを否定する意思を、滝嶋は感じ取った。

それでも、声を掛けざるをえない。

「工藤さん」
「…………」
「大丈夫ですか」

その言葉にも、征二は反応しない。滝嶋の耳に入ってきたのは、鼻歌だった。ムーンリバーだ。

「工藤さん……」

曲が一通り終わると、征二はふっと笑った。

「明るさが疎ましいな。接続詞は蒸発したのか?」

それを聞いた秀典がキャッキャと笑う。

「ほら、故障しているでしょ」

嬉しそうに滝嶋に言う。

「歌が、聞こえる。箱庭から、歌が。聞こえる」
「……お兄様がみえてます。行きましょう」

征二の不調のきっかけは、恐らく主治医が退院をちらつかせたことだろう。一般科の場合、退院は往々にして歓迎されるべきことである。

しかし征二の場合、それは決して喜ばしいことではなかった。滝嶋が奔走するも、当の本人が、なんと退院を拒否しているのである。

数日前にはこんなやり取りがあった。

「工藤さん。退院は、怖いですか」
「いいえ。怖いわけではありません」
「ご家族も大丈夫とおっしゃっていますよ」
「僕は、ここを離れるわけにはいかない」
「社会に出るのが嫌ですか。長谷川先生は、もうあなたは外部のストレスにも耐えられるだけの回復をしたと仰っていましたよ」
「……そういう、問題じゃ、ない」
「じゃあ、どうして」
「……。……歌が、聞こえませんか」
「えっ」
「箱庭から、歌が聞こえる。閉じ込められた者たちの、悲鳴にすらなれない『歌』が」
「工藤さん……?」
「美しい声だ」

この出来事を、滝嶋は「幻聴・妄想の再燃」と申し送った。そのことで、主治医は征二に再び刺激を遮断するために保護室行きを指示した。しかし、院の方針でその処遇には家族の同意が必要であった。俊一が呼び出されたのは、そういう理由だったのだ。

箱庭では、医師の命令は絶対だ。患者が意志を表明しようものなら、「暴言・暴力」と見做され、薬を無理やり投与されたり、保護室処遇されたりしかねない。人権の「じ」の字は、ここには存在しないのだろう。

しかし、会話できるうちはまだ良かった。日を追うごとに、征二は自分の世界に閉じこもるようになり、看護師の声掛けにも頷くことは時々で、部屋の隅でうずくまったまま何やらぶつぶつと呟く時間が長くなった。

「工藤さん、血圧を測らせてください」

看護師がやってきて、医療器具を取り出すと、それを征二はじっと見て、怯えた表情になった。

「俺を、解剖する気ですか」
「まさか。血圧計ではそんなことできません」

征二は、血圧計を射抜かんばかりの視線で睨んだ。

「解剖したければすればいい。俺の中の宇宙は誰にも侵されないよ」
「ですから、解剖なんてしませんって」
「果てないものは宇宙と愛。両者が出会う時、ユイが捧げられるんだ」
「はいはい。腕出して」
「あられもない劣情が、裁きの時を待つ」
「右腕でいいわ、早くして」

征二は腕を差し出すどころか、かたくなに看護師を拒む。いや、彼は全てを否定する。彼を否定するものすべてを。

看護師は聞こえよがしにため息をつくと、バイタルチェックをせずに出ていった。

「工藤さん、ご家族が悲しむわよ」

看護師には悪意はない。かといって理解もない。彼女たちの無神経さが、時として人を傷つけることを、征二は、身をもって知っている。

閉じられた世界で征二は、カーテンに向かって話しかけ続けるだけだ。

「熟した太陽が落ちる。火星が燃える。そして僕らは、結ばれる……」


人が生存するためには、哲学や宗教は別段、必要不可欠なわけではない。しかし、限られた命を燃やすには、それなりの思慮が求められるのだろう。その重きを、そういう類のものに置く人は多い。征二の場合は、文学にのめり込んだ経験が生き様に表れているといっても過言ではなかった。

中原中也の詩を、彼はたくさん暗記している。中でも好んでいるのは、「春日狂想」だ。その一節を、看護師の前で(看護師の存在など気にもせず)ある日、彼は暗唱を始めた。

「愛するものが死んだ時には、自殺しなけあなりません」

これはその詩の、あまりにも有名な出だしだが、その看護師には教養がなかったらしかった。

「工藤さん、なんてこと言うんですか。薬、増えちゃいますよ」
「……愛するものが死んだ時には、それより他に、方法がない」

征二の口調はどこまでも機械的だ。まるで詩を吐き出す人形だ。看護師は征二の顔を覗き込んだ。

「けれどもそれでも業が深くて、なほもながらふことともなつたら奉仕の気持ちになることなんです」

看護師は怪訝そうな顔をして病室から出て行った。征二は一人に戻ると、ベッドに横たわり、うずくまって瞳を閉じた。夢を見るため。現実から逃れるため。世界を拒絶するために。


目の前に広がる、草原。いつかの場所で、交わした約束を携えて、彼は佇んでいた。遠くで手を振るのは、彼女だ。笑顔で彼を待っている。彼は動けない。足が、思うように運べない。一歩踏み出そうとすれば、それを制する声がするのだ。

――あの女は本当に、お前の愛する女か?

うるさい。うるさいうるさい。やっと逢えたんだ。黙れ。

――お前は騙されている。哀れな神様。


部屋まで昼食を運んできた美和が、声をかけてきた。

「工藤さん、お昼ですよ」
「……」

反応は、ない。

「ご飯、置いておきますね」
「待て」
「えっ」
「俺は俺の生を生きているだろうか」

美和は戸惑った様子で、恐るおそる声をかけた。

「起きてらしたんですね」
「俺は、俺の、生を……っ」
「工藤さん……」

美和はどうしたらよいかわからず、視線のやり場に困った。征二は、泣いているのだ。涙の筋が二つ、両目を伝っていた。

「ユイ」
「工藤さ――」
「逢いたいよ……」

口調は、まるで母親にお菓子をねだる幼子のそれだ。精悍な見た目からは想像もつかない。ただひたすらに愛する人に逢いたい。その想いは時に人を狂わせる。そう、既に「その一線」を超えてしまった征二にとっては、それはとても容易いことなのだ。

しかし、彼の苦悩を「狂気」というラベリングで済ませてしまっていいのだろうか。それは、健常者と呼ばれる人々が彼を処するための都合のいい手段、ただの欺瞞ではないだろうか。

美和にはわからなかった。彼の認識する世界も、彼の苦悩も、何度も理解を試みたが、やはり無理だった。それは当たり前なのだ。他者の世界を理解しうるわけはない。ましてや、征二の認識する世界など。だから、美和は仕方なく、優しい言葉をかけた。

「きっと、大丈夫ですよ」

何がどう、大丈夫なのだろう。

その後、主治医の長谷川は、征二の保護室処遇を解除する判断をした。逆効果だと考えたのだろう。美和はその報を先輩看護師から聞き、少しだけホッとした。

やはり、独りにするのは良くない。外部からの刺激を遮断するという大義名分で、彼を隔離していたのだ。それが彼にとって「いいこと」だなどとは、とても考えられない。

現代の精神医学は、未解明なことがあまりに多い。「精神医学」という言葉自体、時として眉唾な響きを孕んでいる。

一つ言えるのは、根本的な解決手段を持たずに、小手先で患者の人間性を奪っている現状が放置されているという事実だ。

履き違えてはならない。精神医学は決して癒しなどではない。人を癒すのは、人と時間なのだ。薬は補助に過ぎない。このことをわきまえずに、「彼ら」と接してはいけない。

美和といえば打ちひしがれていた。また征二に生やさしい言葉をかけたことを後悔していたのだ。己の軽薄さに、自己嫌悪さえ覚えていた。

「気にしないことね」

先輩看護師はそう言う。いちいち気にしては身がもたないと。確かに、さっくりと割り切れたら、どんなにいいだろう。でも、割り切っちゃいけない気も、する。何が正しいのだろうか。
美和の自問自答は続いている。


結局、俊一は征二の保護室処遇へのサインを拒否した。病院に対する信頼が脆くも崩れた今、自分がすべきことはサインなどではなく、弟をこんな場所から離すことだと判断したからだ。

滝嶋にも一抹の良心はあったのだろう、手紙の存在を俊一に伝えたのは、その証拠だといっていい。自分の非力を認めるだけ、まだマシなのだ。箱庭では、抑圧が抑圧を生んでいる。

俊一はなるべく冷静を装い、弟と対峙していた。

「俺が誰か、わかるか」

滝嶋は、固唾を飲んで同席している。征二はしばらく俯いていたが、急に俊一を指差し、

「お前は、死神だ」

などと言うものだから、俊一は深いため息をついた。そして、その言葉をなぞるように、滝嶋にこう言った。

「――征二に、あの手紙を見せて下さい」

第六話 一歩 へつづく