第六話 一歩

その場に、重苦しい沈黙が降りる。出されたお茶も冷め切ってしまった。

俊一は促すようにもう一度、滝崎に手紙を征二に見せるように言った。征二はしばらく無言で手遊びに興じていたが、ふと言葉を漏らした。

「虹は、どこ?」
「征二。ユイさんから、お前に手紙だ」

その言葉には、反応せざるを得なかった。

「……ユイが、手紙を?」
「そうだ。いいから読め。大切なことが書いてある」

本来ならばありえないことだ。主治医の許可を経ずにこのようなことをするのは。

しかし、滝嶋は思った。自分の首が飛ぼうがどうなろうが、己の良心に逆らってはならないと。

手紙を隠していたのは、明らかに前任のPSWの勝手な判断だ。そしてそういう判断をさせるような環境には、やはり人はいるべきではないのかもしれない。

この行動の結果、もし征二の調子が崩れたとしても、必ず征二が「戻ってくる」とも、滝嶋は信じている。

征二は手紙を受け取ると、しばらくの間、黙って読んでいた。いや、読み終えても口を開かなかった。

「征二」

俊一が話しかける。だが、反応はない。しばらくしてから、

「ふっ」

と、征二は息を吐いた。

その挙動を、呼吸を、俊一と滝嶋は見守っていた。

「そっか……」

征二の言葉はまるで祈りのようだ。

「そういう、ことなんだな」
「征二……」
「ユイは、生きて、いるんだ」

ユイが、生きている。イタリアにいるという。一年も前の話だ。今は、どうしているのだろう? 何も知らなかった。むしろ、裏切られたと思っていた。勝手に孤独の中に身を置いていた。しかし、彼女は自分のために、そしてこの箱庭のために、留学したのだ。

逢いたい。逢いたい。ただあの顔に、そっと触れたい。

約束は約束のまま、確かにここに在ったのだ。

嬉しいこともしかしながら時にはストレスとなって、彼の世界は滲み出す。今はまだ、受け入れがたい現実。

みるみるうちに、征二の両眼には涙が湛えられる。そのうちの一筋が、ぽろりと頬を伝い、手紙の上に落ちた。征二はぎこちない動きで頭を抱えると、「あぁ」とうめいた。顔を手紙に接近させ、紅潮した頬を撫でつける。

「そうだ。君の生存を知るものは、僕ただ一人だ」
「征二……?」
「思い出ばかりが破片となって突き刺さった大地に、荒涼を知るものが独り、星を数えている」

異変を感じ取ったのは俊一だけではなかった。「頓服薬を出しますか」との滝嶋の問いに、しかし俊一は首を横に振った。

「今は、こいつの好きなようにさせてやってください」
「わかりました……」

征二は心のままに泣いている。そして、心のままに詠っている。

「星の数え方を侮ってはならない。僕らがかつて違えた様には」

征二はぶつぶつと手紙に語りかけている。滝崎は固唾を飲んだ。人の狂気というのは時としてこんなにも悲しく、美しいものなのかと。

俊一は征二の肩にそっと触れた。それに構わず征二は続ける。

「星読みの孤独を誰も知らない。ツクヨミが殺した兎は、どうしようもない嘘つきだったんだ」

征二は両の人さし指を中空へと放り、指揮を執るような動きで、一度だけ大きく頷いた。

「俺は、ここに居てはならない」

ガタンと音を立てて、立ち上がった。滝崎と俊一が制止するより早く、征二は走り去ってしまったのだ。二人は意表を突かれた。

「征二!」

俊一が追いかけるも、かつて陸上で鍛えた征二の足には追い付けない。あっという間に視界から消えた。

俺は、自由を知らなければならない。
ユイが教えてくれたんだから。
あの場所で、約束したんだから。
今こそ、守り抜かなければ!

征二の入院している病棟の庭には、『約束の樹』と名付けられた大きな木がある。家族会が厚意で植えたもので、その大きさが病棟の歴史を物語っている。

征二はその下に辿り着くと、うずくまって、幹に手添え、まるで樹木の体温でも確かめるような仕草をとった。

命を、感じる。誰も侵してはならない領域。確かな感触。

「ユイ」

征二は木に向かって話しかける。

いつか交わした、二人だけの約束を覚えているかい。いつか交わした、口づけを覚えているかい。

君はまだこの世界にいる、それは無条件に俺を肯定することを意味するんだ。歌を、歌おう。君が昔、気に入ってよく歌っていた歌を。

ムーンリバー。1マイルより広い川。
私はいつか向こう岸に渡ってみせるわ。
ああ あなたは私に夢を与える。
そして傷つけるのもあなた。
あなたがどんな所に流れて行こうとも。
私はあなたについていくわ。
2人のさまよい人。岸を離れていくわ。
世界には こんなにも見るべきものがあるのよ。
私たちはきっと一緒になれるわ。
あの曲がり道のあたりの虹の向こうで。
私の幼なじみ。ムーンリバーと私。

征二は口笛でムーンリバーを吹き始めた。澄んで悲しい響き。あの雨の日、征二が初めて狂気をユイに向けた日も、それを吹いたことを、征二自身はもう覚えていない。

幹に寄りかかってジャケットのポケットに両手を突っ込み、口笛を吹き続ける。目元の涙は、止まることを知らない。

「征二」

ようやく弟を見つけた俊一が、肩で息をしながら声をかけてきた。

「行こう。今すぐ」

その言葉に、征二は珍しく反応した。

「……どこに?」
「ここ以外の場所へだ。実家だっていい。どこでもいい。とにかく、ここじゃない場所へ」

俊一は本気だ。本気で、こんな場所に弟を預けるわけにはいかないと確信した。車のキーを取り出し、征二に近づくと、こう断言した。

「箱庭で夢を見るのは、もう仕舞いだ」


「外泊ということで手続きはよろしいですね。書類は私の方で処理しておきます。あと、私物の管理もお願いします。盗難騒ぎがあったばかりですから」

滝嶋は事務的に、しかし静かな情熱をもって要請した。当直だった美和は戸惑いをもって対応したが、滝嶋の真剣な表情に圧倒され、またこの事態を飲み込もうと懸命に、その指示を聞いていた。

「ドクターには、僕から説明しておきます」
「はい……」
「それから、看護師長にも伝えておきましょう。なに、問題ありませんよ」
「そうでしょうか」
「ええ。問題があるのは、この病院の方です」
「あの」

その言葉に堪らなくなって、美和は切り出した。

「滝嶋さんは、これからどうなさるつもりですか?」

その問いに、滝嶋は、一瞬だけ間を置いてから、穏やかな口調で問いを返した。

「高橋さんは、フランコ・バザーリアをご存知ですか」
「え?」

滝嶋は意地悪っぽく笑う。

「イタリアの精神科医です。嫌だなぁ、この業界にいるのにバザーリアを知らないなんて」
「勉強不足で、えっと、何ていうか」
「無理もないか。恐らく学校でも教わらないだろうし」
「その、イタリア人がどうかしたんですか」

滝嶋は、今度は真顔になった。

「イタリアにはこんな場所はないんです。自由こそ治療だ、というのがバザーリアの信条でね。彼の名が冠された法律によって、イタリアから精神科病院は消えた。後にバザーリアは脳腫瘍でこの世を去ります。バザーリア法成立のため当時の権力と対峙し、職を辞した専門家もいます」

美和はハッとして、
「滝嶋さん、もしかして」
「あー、奥多摩あたりに隠居しようかなー……」


夜の甲州街道は先を急ぐトラックが多い。すれ違う車のヘッドライトが俊一と征二を照らす。一瞬浮かび上がる征二の表情は、俊一が思うよりも落ち着いていた。

「渋滞してるな」

俊一が缶コーヒーを開けながら言う。征二は、ぽつりと発した。

「まるでみんな、箱庭の住人だ」
「ん、箱庭ってのは病院のことじゃないのか」
「そう、思ってた。俺はどこにもいてはならない。だけど守るべきものを見つけた。それが箱庭のはずだった」

俊一は、征二の言葉に飲み込まれないように気を張る。

「さしづめ、車の中も箱庭か」

征二が頷く。それから人さし指と中指を交差させるような仕草をした。

「悪い。今、タバコは切らしてんだ。そのコーヒーで凌いでくれ。次にコンビニが見えたら寄るから」
「禁煙してるの?」
「まさか。誰かさんのせいでストレスが溜まるから無理だ」
「悪いな」

俊一はハンドルを右に切りながら、「ふん」と一呼吸おいた。

「らしくないぞ。謝るのは、俺の生徒たちにしてくれ」

俊一は高校で社会科の教師をしている。今年度になって担任も任されるようになった。

「兄さん、明日からどうするつもりなの」
「さーな。明日考えるわ。ほら、ファミマでいいか?」

車がインターチェンジ近くのコンビニに停まる。

「ちょっと買ってくる。セブンスターと、薬を飲むのに水がいるだろ、あとなにが欲しい?」
「あれば、ハガキを。あと切手」
「わかった」

俊一がコンビニに向かう。車内に一人残された征二は、行き交う車や人々を見ていた。 こんな風景、いつぶりだろう。自分はもう、一生あの場所で過ごすのだと思っていた。 ユイのいない世界になど、意味はないから。

箱庭では全てが完結していた。朝起きて、デイルームでタバコをふかし、中庭で球戯になど興じ、決められた時間にはご飯が出てきて、寝る場所も確保されている。

時折調子を崩した知り合いがいなくなっていくのが気になったが、それ以外は「守られた」場所だと思ってきた。しかし、それは誤りだったと彼は改めて思う。あのような場所で、人生を費やしてはならないと。

しかし、正直なところ、怖かった。今更、こんな自分が外に放り出されたら、それこそ死んでしまいそうで。それこそおかしくなってしまいそうで。

征二が置かれた状況は、社会的入院が二次的に引き起こすホスピタリズムと呼ばれる。広くは知られていないが、日本が抱える深刻な問題である。

道行く人々は、彼の苦悩を知らない。知る由も無い。当たり前だ。しかし、そのことが、征二にはひどく虚しいことのように感じられた。世界から俺が一人だけで消えたって、甲州街道は渋滞するし、コンビニも開店し続けるし、何も変わらないのだろう、と。それでも、生きていく。その理由は?

征二が逡巡していると、俊一が戻ってきた。

「ほら、いろはすとファイアな。ブラックでよかったか?」
「サンキュ。ブラックじゃないと逆に飲めないんだ」
「そうだったな。それと、これ」

手渡されたのは、切手と便箋だった。

「ハガキじゃ、書ききれないだろうなと思って」

便箋にはハローキティが描かれている。

「兄さん、趣味キモいな」
「これしか売ってなかったんだよ!」

征二はクスッと笑った。

俊一は咳払いして(これは亡くなった父親の癖であった)、

「さぁ、ペンもあるぞ。手紙を書くのに相応しい場所へ行こうか」

と、車を国道沿いに走らせ始めた。

曇天だが、雨は降っていない。星も少し顔を出している。

兄弟は、確かに自由へと動き始めたのだ。

小一時間ほど車を走らせた。国道を抜け、そのまま山道に入る。車で行けるところまで行って、それから二人は無言で小高い丘まで歩いた。

ここなら、星がよく見える。街明かりも宝石箱のように見渡せる。設えられた木のテーブルに腰掛け、二人は深呼吸した。

「懐かしいな」

俊一が言う。

「よく昔、こういう場所まで、かけっこしたよな」
「ああ。いつも俺が勝ってたけど」
「はは。昔からお前、足速かったもんな」
「だから、大学で陸上部だったんだよ。インカレ前に発病しちまったけど」
「あれ、文芸部にも入ってなかったか」

征二はその問いに少し目を伏せた。

「ユーレイ部員さ。俺、浮いてたし」
「え、どうしてだ?」
「中原中也と小林秀雄の確執というか、奇妙な関係があっただろ。その解釈をめぐって揉めたんだよ」

俊一は火をつけようとしたタバコを落としかけた。

「なんつーか、いかにも大学生らしいっちゃらしいが、どうもオタクのにおいがするな」
「思い出さ」

俊一の言葉を遮るように、征二が言った。

「思い出だ」

自分に言い聞かせるように、征二は繰り返した。 俊一はタバコを一本吸ってから、スマホのライトアップ機能を起動させた。

「照らしてやるよ。手紙、書くんだろ」
「うん」

征二は目を閉じ、長く息を吐いた。

ユイへ

君からの手紙を、今日になって読みました。君は、イタリアに行っていたんだね。空港まで見送りに行けなくて、本当にごめん。

お元気ですか。眠れていますか。妙なダイエットはしていませんか。

君がイタリアで何を見たのか、何を学んだのか、俺は知りたい。もしも許されるのならば、君に、また、逢いたい。俺の望みはそれだけです。 俺は元気です。まだたまに、夢と現実の区別がうまくいかない時もあるけれど、穏やかに過ごしているよ。

ただ、君の欠けた世界はとても退屈で、毎日、暇つぶしに必死です。

君の言っていた「楽園」は見つかった? それは精神病院のないイタリアのことだったのかな。知りたい。俺には知らないことが、まだまだ、たくさんありそうだから。君に、教えて欲しい。

叶うならば、高円寺のあの場所でまた、君と誓いあいたい。そんな夢を見ています。

征二

「お兄ちゃんはー?」

病棟内をせわしなく動き回る滝嶋に、声をかけたのは秀典だ。相変わらず、枕を抱きしめている。

「工藤さんのことですか」

滝嶋はしかし誠実に彼に応じた。彼らの言葉が無視されることが往々にしてあることを、よく知っているからだ。

「工藤さんなら、ここにはいません」
「なんでー?」
滝嶋は秀典の目をじっと見た。

「あの人には、待っている人がいます。夢から覚めるための覚悟を、したのでしょう」
「ふーん」

秀典の目元が、細められる。

「面白いね」
「そうでしょうか。夢を見ているのは、吉田さん、あなたも同じでは?」

秀典は返答せず、その代わりに枕に顔をうずめた。

「……では、失礼します」

滝嶋は一礼してから、その場を足早に去った。デイルームには、秀典の声を殺した低い笑い声が、しばらく響いていた。


自由こそ、治療だ。バザーリアはそう言った。「自由」の意味するところは、自分の人生を自分のものにするということだろう。

誰かのせいにして生きない、ということ。つまり、自分を生きるということ。 奪われたなら、取り戻す。

そう、箱庭で奪われたあらゆるものを、征二は再び手にするための一歩を踏み出したのだった。

第七話 温泉 へつづく