第七話 温泉

一線を越えてしまった者たちの、悲しい歌が聞こえる。彼は言う、『狂うことでしか、生き延びられなかったのだ』と。

そう、狂気に身をやつすことは、彼にとって生きるための手段だったのだ。なぜなら、狂わなければ、彼はきっと「生きられなかった」だろうから。そう、彼女への愛ゆえに。

「自由には、痛みが付きまとう。しかし、痛みを忘れたら、人は生きることの責任を放棄したに等しい。生きることとは、すなわち、痛みを連続させることだからだ」。

神様なんて本当にいたら、とんだサディストだ……。

俺は決して許さないよ。許さないで、忘れることもないだろう。

ユイ。かつて儚い永遠を誓った場所で俺は待っている。もう逃げないよ、逃げ場を失ったから。君が、奪ったから。壊してくれたんだ、嘘で塗り固めた日々を。


征二はベンチに腰掛けたまま、缶コーヒーを開けた。隣では俊一が職場へメールで『病欠』の連絡を入れていたところだ。

吐く息が白く消える。もうすぐ夜明けだ。

「お前、眠らなくて大丈夫か」

確かに、征二の病気に不眠は大敵だ。征二は頷いて、

「少し眠りたい。ただ、 朝日をここから見たい。見たら、車の中で眠らせてくれ」
「わかった」

征二はブルゾンのファスナーを閉め直すと、陽の出るであろう方角へ視線をやった。俊一もまた、朝日を待つためにコートのベルトを締め直した。

それからずっと、二人は黙っていた。時がたち、宵闇が徐々に溶かされてゆく。地平線の際から光がうすぼんやりと滲み始める。

やがて、太陽がゆっくりと顔を出した。澄み切った空に、ただ美しくある。人々に希望を易々と与える光。それでも人が信じる、光。

「兄さん」

征二は声をかけた。

「そろそろ寝かせてくれ」
「ああ……わかった」

俊一が車に向かう。

「兄さん」
「なんだ?」

カバンの中にあるはずの車のキーを探しながら俊一が問う。少し間をおいてから、征二は告げた。

「……ありがとう」


俊一は不思議な心持ちでいた。弟が、助手席で安らかな寝息を立てている。昔、よく隣の布団で寝たっけな。やんちゃでいつも遊び疲れてグッスリ眠っていたお前に、睡眠薬が欠かせなくなったのはいつからだったか。

確か、冬の日だったな。恋人を抱くたびに不安に飲まれていったお前は、その優しさゆえに容易く狂気に飲まれた。それは闇と呼ぶには温かく、あまりに静かで穏やかな底なし沼のようだった。

病院での生活にもきっと慣れたんだろう、腕時計を気にする癖がついている。7時20分になれば朝食、9時半にラジオ体操、10時半から作業療法、正午に昼食、15時には音楽療法、夕食は病院の都合で早めの17時半、そして消灯は21時。

しかし、それは日常などではないと、疾うに知っていただろう?

お前が目を覚ましたら、驚かせてやるよ。切手代くらい、俺が出してやるから。


「彼」は、本当は知っていた。いや、気づいていた。嘘を嘘で塗り固めたこんな場所など、要らないと。あってはならないと。

――だから、決心した。

「あれ? 吉田さん、タバコなんて吸うの?」

喫煙所の出入り口で声をかけられて、秀典はにっこり笑った。

「ううん、吸わないよ。僕は、お子様だから」

その笑顔が不気味だったのか、女性看護師はそそくさと去っていった。

自由? いらない。怖いもん。

でもね、嘘だらけの白い壁なら、もっといらない。

「白は噓つきの色! そうでしょう?」

それを耳にした藤沢浩子が、明らかに不快な顔をした。

「白は神聖な色よ。あなたの言葉で穢さないで」
「信じるのは勝手だよね!」

秀典は「かみさま~♪」と歌いながら去っていった。一部始終を見ていた皆川アキもまた、不愉快さを隠しきれない様子である。

「前から思ってたんだけど。アイツ、本当は病気なんかじゃないんじゃないの?」
「知らない。興味ない」
「そーだね。私も。アハハ!」

アキは余程退屈なのだろう、浩子を茶化すような口調で絡んできた。

「そういやさ、今日はあの文学青年、見かけないねぇ」
「別に、どうでもいいわ。保護室か閉鎖行きじゃないの」
「サラッと怖いこというんだよね、あんた。そういうとこ、嫌いじゃないよ」
「……」


閉ざされた箱庭で歌を歌った日々は、決して悲劇ではないよ。鳥が鳥籠でさえずるのは愛でられているからでしょう。

そう、僕は不幸なんかじゃない。

フコウなんてのは、医者やら親やらが勝手に僕に押し付けてきた烙印だ。

そう、この僕に焼き付けてきたんだ。

――だったら、今度は僕が。

ワガママボーヤの手によって、冬が撃ち落とされる。冬が死んだから春が背後からやって来るんだ。 そんなこと、みんなもうとっくに知っているよ。


征二が目を覚ますと、俊一が顔を覗き込んできた。

「お前、よく眠ってたな」

そう言ってスタバのコーヒー片手に笑う。

「ほら、マックでもいいから食え。買っておいたぞ。テリヤキ好きだったろ?」
「え……」
「あれ、違ったっけか。ビックマックだっけ」
「いや、あの」
「なんだ?」
「ん……」

寝起きの征二はやや戸惑った表情だ。なぜなら、俊一の表情がとても柔和だったからだ。 まるで亡き父の面影を映しているかのようだ。

もう微かな思い出。

兄と喧嘩したら、必ず二人を平等に叱ってくれた父。

高校生の時に、病気で逝ってしまった。

「……なぁ、兄さん」
「ほら、嫌じゃなければ食え。空腹じゃ薬も飲めないだろ」
「ああ……」

包装紙をはがすと現れるテリヤキバーガーに、征二は食らいついた。余程お腹が空いていたのだろう、あっという間に平らげた。ポテトにも手を伸ばした時に、はたと気づいて慌てて兄に問うた。

「て、手紙は?」

その様子に、俊一はニッと笑ってみせた。

「出しておいた。もちろん速達でだ」

格好つけてカップを傾けてみせるものだから、征二は一気に表情を緩ませた。

「……ありがとう」
「礼は要らん。食ったら出発するぞ」
「でも、どこに?」

俊一は差し込む陽光に目を細めた。

「今、どこにいると思う」
「えっと……どっかのサービスエリア?」
「正解。それも、上里だぞ」
「え?」

発想が実に俊一らしいと言えば、彼らしい。入院していては温泉など入れないだろう、との精一杯の配慮だった。

名付けて、「そうだ、温泉に行こう作戦」。

車の中で先に目を覚ました俊一は、都内の郵便局に寄った後、睡眠薬で眠りの深い征二を助手席に乗せたまま、高速道路を飛ばしたのだった。

「嫌なことがあったときはな、温泉に限るんだよ」
「なんだそれ」
「日本人のDNAをなめるな。きっと、いや絶対に癒されるから」
「湯治かよ……」

力強く頷く俊一であった。

そんな兄弟のもとに、箱庭=病棟に関する衝撃的な一報が入るのは、数時間後のことである。


征二と俊一は、久方ぶりに温泉で裸の付き合いをしていた。

「はぁー、やっぱいいわ~」

俊一がしみじみ唸る。征二はおずおずと、

「……あの、さ」
「なぁに~?」
「曲がりなりにも兄さん、教師だろ。何日も仕事さぼって温泉とかあり得ないだろ」

それを聞いた俊一はへらっと笑った。

「あり得ないことが起こり得るんだ。この世の中ってのは、不思議だろ」
「ん……」
「まだまだ、捨てたもんじゃないだろ?」
「……そうだな」

ちゃぷ、と音を立てて征二は湯面を指ではじいた。

空を見上げる。

高く青く、どこまでも澄んでいる。まるで愛を乞う人を拒絶するような冷たい青。

征二は湯に浸かりながら右手を天に伸ばした。指の隙間から見える、流れる雲。同じ形は一つとしてないと思うと、そのどれもが尊く感じられる。

「なぁ、征二」

ほかほかに温まった俊一は満足げに目を細めて、弟に声をかけた。

「非日常ってのはたぶん、こーゆー時間のことだよな」

小鳥が数羽飛んでいって、その飛影が二人をかすめた。鳴き声が耳に心地よい。

穏やかな沈黙。いつぶりだろう、こんな時間を過ごすのは。

「悪くないな、確かに」

征二が言う。俊一は思わず苦笑した。

「素直じゃないね〜」
「……怖いんだよ」
「え?」
「今さら、戻れるのかって。戻っていいのかなって。だって、俺……」

征二は言葉に詰まった。首を一回横に振った。

「俺、おかしいんだろ。だから、あんな場所に暮らしてて、ユイにも逢えないし……」
「征二」

俊一は征二を制して言う。

「いいんだ。大丈夫だ。俺が勝手に保障する。お前はもう大丈夫だ」
「え……?」
「戻ってこい。このまま、今日は宿に泊まって、そんで実家に帰ろう」
「兄さん……」

湯けむりが二人を包む。

このまま、非日常に逃げていたい気もするが、そろそろ体も火照ってきた。

俊一はニッと笑ってみせた。

「あがったら、コーヒー牛乳で決まりだな」

それはもう、気分がよかった。まるで、昔に戻ったような気分だった。すべて許された気さえした。

――自由って、きっと、こういうことなんだ。


「自由なんていらない!」

秀典は誰よりも箱庭を愛し、そして憎んだ人間だ。

雑に管理されたリネン庫の奥で、喫煙室から盗んできたライターで火をつけるのは、秀典にとっては簡単なことだった。毎週水曜日の夜、日勤帯から準夜勤帯への時間、医療スタッフが手薄になることを、彼は知っていた。

最初に火に気付いたのは浩子だった。だが、誰にも伝えなかった。燃え広がる炎を見て、

「綺麗……」

と、絵筆を握りしめながら呟いてその場に佇み続けていた。

すぐにけたたましく非常ベルが鳴る。騒然とする病棟内に、医療スタッフや患者たちの怒号が響く。

「看護師長の指示に従ってください! 荷物は持たないでください!」

美和の懸命な呼びかけは、しかし飛び交う悲鳴や叫び声にかき消されてしまう。

冬の乾燥した空気は、炎をあっという間に成長させ、建物を飲み込ませた。

「白はみんな、真っ黒くろになっちゃえばいいんだぁ!」

――それが、秀典の最期の言葉となった。

滝嶋は泣きじゃくる女性患者の背中をさすりながら、自分の精神面を整えるのに必死だった。消防車と救急車のサイレンが鳴り響く中、茫然と目の前に広がる光景を見ていた。

「これで、私たち――」

アキがポツリと言う。

「家なき子に、なっちゃった」

第八話 灰になる へつづく