第九話 教会

高速道路を、制限速度を若干超えて飛ばした。俊一は黙ったまま、運転を続ける。征二はぶつぶつと何かを唱えている。

「再会の日には、贄が必要なんだ……捧げられたのは、黒い羊さ」

いつもの、といえばいつもの征二だ。

「嘘つきは贄の始まり。そうだろう?」

水底から湧き上がるような笑いを漏らす征二。俊一はハンドルを握りながら、

「悪いが、サービスエリアには寄らずに行くぞ」
「ああ。急いでくれ」

俊一は驚いた。

「……俺の声、聞こえてるのか」
「こんな至近距離でしょ」
「そうじゃなくて。てっきりマイワールドに閉じこもったのかと思った」
「どういう意味だよ」
「そのままの意味だよ」

そう言って、俊一は笑った。

そうだ。ありのままに弟のことを受け止めよう。とうの昔に決めていたんだった。


ユイは老紳士の不思議と柔らかい雰囲気に促されるように、征二と自分のことを話した。

どれくらい時間がかかっただろう。しかし、老紳士はじっくり傾聴してくれた。

一通り話し終えると、ユイは頬を両手でぱちん、と軽く叩いた。

老紳士は、ゆっくりと頷いた。

「あなたは、本当に心の綺麗な人ですね。待ち続けるだけではなくて、行動したんですから」
「……私の心は、綺麗なんかじゃ、きっとありません。ただ、彼のことをちゃんと知りたくて……それだけです」
「十分さ。恋人のためにイタリアにまで行くだなんて、あなたの想い人は幸せです」
「そう、でしょうか」
「あなたは自分のせいで、彼が病んだとおっしゃいましたね」
「はい」

老紳士は瞼を閉じ、ユイにこう伝えた。

「それ以上の愛情表現を、僕は知らない」

ユイはハッとした。

そうなのだ。
私のことを、心を蝕んでまで思ってくれた。
そのことに感謝こそすれ、なぜ私は自分を責めてしまったのだろう。

「……あなたは、一体……?」
「はは、ただのリタイアした神父です」
「……!」

ユイが改めてお辞儀しようとするのを、老紳士――元神父は柔らかい挙動で制した。

神父は相当の理由がない限り 生涯その職を辞することはない。ということは、この老紳士には「相当の理由」があるのだろう。ユイが慮るには重すぎるのだ。

「気持ちはありがたいけど、今はただの有閑老人だから」
「すみません……。いえ、ありがとうございます」

私を想って彼は壊れた。
これ以上の愛の証は、きっと存在しない。

もう、迷うまい。何が起きても、彼を信じよう。とっくにそう決めていたことを、私はすっかり忘れていた。大切なことほど、見えなくなるというのは確からしい。身を以て知った。そして、気づいた。自分がいかに、征二を想っているのか。

ふと、外の風が凪いだ。

老紳士は、そろそろ時間だから、と言って去っていった。

ユイは礼拝堂の祭壇に向かって両手を組んで、目を閉じた。そして、祈りを捧げ始めた。

―――神様。人は迷い、過ちを犯すようにできているのですね。そして、そこから学び、生きていくことを選び続け、いずれあなたのもとへ召されるのですね。

「……」

夕刻が迫ってくる。静かな空間で彼女は祈り続ける。

あの雨の日、あなたを否定したこと、私の心の楔です。一生、消せないし、消したくない。それが、私があなたを想う形だからです。

私はこれから、あなたと呼吸をしたい。あなたと一緒に、歩いていきたい。あなたがどんなに壊れていても、あなたが一生懸命に生きていることを、私は知っているからです。

もしも許されるのならば、……愛することを、お許しください。


車は行きと違ってスムーズに進んだ。俊一は不思議な心持ちでいた。

高速を降りて、一般道に入ると、行き交う歩行者や自転車。日常が、そこにある。

だが、征二にとっての日常は、あっけなく焼け落ちた。それを彼は「運命」だと言った。

確かに、あの場所は日常になってはならない場所だ。いつかは、出ていくべき場所だ。あんな形で失われるとは、思いもよらなかったが。

高円寺駅前に着くと、俊一は征二を促した。

「ほら、征二。ここから歩けるだろ」
「うん……」
「どうした?」

征二は俊一に真剣なまなざしを送った。

「兄さん」
「なんだ?」
「本当に、ありがとう」

俊一はひらひらと左手を振った。

車を降りて、征二は高円寺の街を歩き出した。相変わらず賑やかだ。ここから教会までそうかからないが、彼は一歩一歩を踏みしめるように歩いた。

この一歩が、彼女に続いていると思うと、とても愛おしく感じられた。

どんな時も自分のことを想ってくれている。自分の為に、身を賭して海外にまで行った、ユイ。

いつだったか、二人で映画を観て街を彷徨ったこともあった。喫茶店に入って、マンデリンを飲んだっけな。ユイは何を飲んでいたっけ?

そうそう、あの時、後で兄さんに見つかって大変だったんだよね。

全部、思い出になってしまえば、美しくなってしまう。

征二は中央線の往来を背後に、ゆっくり、しかし、しっかりとした足取りで歩いた。やがて、駅前の喧騒から逃れて、カトリック高円寺教会が見えてきた。

約束の、場所。征二は、数回、深呼吸をした。

人を、誰かを、愛し幸せにしたいという思いは、もしかしたら「覚悟」なのかもしれない。ユイはその覚悟をとうに決めていた。そして、行動に移してくれた。 伝えなければ。感謝を。愛を。今度こそ、覚悟のもとに。


すっかり日も落ちて、あたりはさらに静かになった。祈りを終えたユイは、祭壇近くに一人で佇んでいた。

フーッと長く息を吐く。

予感が、した。

予感というよりも、確信に近かったかもしれない。だから、ユイの胸の内は至って穏やかだった。波の立たない海のように、彼女の心は平穏に満たされていた。それは、すべてを受け入れる覚悟をした者にだけ訪れる瞬間なのかもしれない。

その場の沈黙を破るように、木製の扉の開く、鈍い音がした。

……ほらね。わかってたよ。

ユイは、まっすぐ前を向いていた。だから、すぐに視界に、人影が映った。

「あ……!」

彼女の目に飛び込んできたのは――、今度こそ間違いなく、愛しい人の姿だった。

エピローグ ふたりの涙 へつづく