独言
私の想いは、幼子の欲求の発露のごとく拙く、月光を吸い込んだ絹糸のように儚い。しかし、それで構わないから、あなたを絡めとりたい。私の言葉で、あらゆる倫理を超越して。
思慕
外山景彦が弁護士となったのは、私立大学の法学部を卒業してから三年後のことだった。両親はじめ周囲は祝福してくれたが、景彦本人以上に喜んだのが、祖母だった。
「お前は、本当に頑張り屋だったから」
病床に伏せていた祖母は、司法試験合格の一報にたいそう破顔したという。時に優しく、時に厳しくあった祖母の、喜ぶ顔が見られてよかった。景彦は心の底からそう思った。
司法試験に落ちるたび、最も叱咤激励してくれたのが祖母だった。陰湿ないじめに遭って不登校を経験した中学時代にも、祖母は、温かな、夜空に浮かぶ月のようなまなざしで景彦を見守ってきた。
「景彦、お前なら大丈夫よ」
まるでおまじないのように、いつでも祖母は景彦にそう伝え続てけてきた。つらくて、なにもかもを投げ出してしまいそうになると、心にそっと言葉の|錨《いかり》を下ろしてくれたのが祖母だった。
祖母の訃報を受け取ったのは、景彦が弁護士になって一年弱が経った頃のことだ。蒸し暑い日だった。夜遅くまで法律事務所でパソコンに向かっていると、母親からスマートフォンに着電があり、景彦はマウスを片手に応答した。
病状は徐々に悪化していたし、もう長くはないだろうと主治医からも宣告されていた。覚悟はしていたつもりだった。だが、電話を切った景彦は、事務所の片隅で嗚咽を止めることができなかった。
巡りくる夏のはじまりを、虫たちが輪唱で告げていた夜のことだった。
お盆に遺品整理をしていると、母が「あらまあ」と声を出した。母が手にしていたのは古いフォトアルバムで、中身は祖母の若かりし頃の写真だった。和装での結婚式のときのものである。
「おばあちゃんの頃はお見合い婚が多かったんだけど、おばあちゃんとおじいちゃんは恋愛結婚だったのよ。大恋愛だったらしいわ」
厳格そうな表情で紋付袴を着た祖父と、その祖父に負けないくらい凛々しい顔つきで色打掛を着ている祖母。多少色褪せはしているものの、この二人がいかに想いあっていたかがよく伝わってくる一枚だ。
景彦はその写真を、スマートフォンのカメラでスキャンし、フォトアプリにデータを保存した。
民事訴訟の弁護を補佐的に担当することになったのは、それから間もなくのことだった。景彦にとって初めての法廷デビューとなる案件は、とある私立高校で、「いじめに遭って欠席を続けたために出席日数が足りずに留年処分された」と訴える女性とその家族の、学校及び加害者に対する損害賠償請求であった。
相手方のことを調べるため、あらゆる資料を探し、閲覧した。当然その中にはインターネットという手段も含まれており、接するテキストたちは玉石混淆ではあるが、それなりに有益な情報源として活用していた。
「ブラック校則」「体罰」「いじめ」というキーワードを組み合わせて検索をかけると、確かに結果の上位にその学校名が出てくる。黒い噂のまとめサイトまであるらしかった。読んでいるだけで疲れる。
しかし、景彦は原告の置かれた境遇を他人事とは思えなかった。資料を読めば読むほど、心の奥底でいまだ疼く傷が暴れだしそうになる。ただただ死にたくて、なにもかもから逃げ出したくて、唯一のか細い光が、祖母の存在だったあの頃。
ふと、「他の人はこちらも検索」という項目を見つけたので、景彦は惰性でクリックした。
すると、WEB上の百科事典的なサイトに遷移し、画面には「法と掟を司る古代ギリシャの女神 テミス」についての記述が表示された。いったいこれは、どういうことだろう。
疑問を持ったものの、景彦はそのままそのページを読み進めた。
「女神テミスとは、不変なる掟の象徴。「秩序」「正義」「平和」の母である。」と記載されている。ページの最下部には、女神像の画像が載っていた。
それを見た景彦は、思わず唾を飲んだ。どくんと心臓が打つのがわかった。どことなく感じた、いや、確かに見たのだ。法と掟を司る女神の彫像に、祖母の面影を。景彦は、今度は若かりし頃の祖母を写したフォトデータを、スマートフォンで確認した。
――間違いない。優しくまた厳しかった祖母は、自分にとってのテミスだった。景彦の頬を、暑さだけではない理由で汗が伝う。
それからというもの、景彦は空をゆく雲や青々とした街路樹の葉、公園のブランコなど、何気ない風景のあらゆる場所に、テミスの面影を求めるようになった。
ある日の帰り道も、歩を止めて、街角に咲く野花を見つめた。名前は知らない。けれども、テミスの頬には、こんな朱色の頬紅がさされているに違いない。
胸元に着けている弁護士バッジに手をやる。バッジの中央は天秤が象られている。同僚から伝え聞いた話では、ローマ神話に出てくる、「Justice」の語源にもなったユースティティアという女神が持つものらしい。驚いたことに、このユースティティアは、ギリシャ神話ではテミスのことを指すのだという。
偶然だとは思えない。自分が弁護士を志したのは、かつて自分を貶めた同級生たちを見返したいという浅ましい動機が主だった。だが、今、自分は結果的に法と秩序を司るテミスに関わりの深い立場にいる。
この国を支配しているのは誰だろう、と考えたことはあるだろうか。皇帝か、大臣か、はたまた民衆か。どれも違う。この国を支配しているのは、他でもない「法」である。
街のどこへ行っても、テミスを感じるのだ。何より、自分の胸元に熱く。景彦は、背中に西日を背負い、ヒグラシの大合唱を耳に受けながら、跳ね上がる鼓動に心を委ね、その場で固く目を閉じた。
片割れ
眼前に広がるのは、どこまでも広がる夜の草原だった。空にはぽかりと満月が浮かんでいる。さっきまで感じていたまとわりつくような暑さはなく、しんとした涼風が景彦の鼻腔をかすめた。
景彦は一歩踏み出そうとして、しかしそれを止めた。誰かがいる気配を感じたからだ。その予感はすぐに確信へと変わる。
(やっと会えたな)
突然、頭の中に声が響いたものだから、景彦ははじかれたように周囲を見渡した。やはり誰もいない。
(まあそう驚くな。お前は、『私』なのだから)
ハッとして、景彦は夜空を見上げた。こちらを睨みつけるがごとく煌々と照っている満月。間違いない、あれが自分に語りかけてきている。
(私の名は、月読)
景彦は呆然として夜空を見上げ続けている。月と両の目がかちりと合ったとたん、景彦の中に今まで味わったことのない感情が、感覚が、洪水のように押し寄せてきた。それらは、怜悧な月の光のように、まっすぐ景彦を貫いた。
――月読。それは、俺の名だ。
(そうだ。私はお前で、お前は私だ)
――そうだった。
(我が片割れよ、一つ問う)
――なんだ。
(この世界のすべては必然だ。お前が法の道に進んだことも、今ここでこうして私たちが出会ったことも、すべて)
――『問い』というのは?
(……誰かが誰かを恋うのに、理由がいると思うか?)
その問いに、景彦はゆっくりと首を横に振る。
(そうだ。月読として、私は、想い慕う面影に出逢うのだ。理由はもちろん、道理さえ、もはやこの視界には要らない)
景彦は、月の暗部に潜む闇のように、くぐもった声を出して笑いだした。草原の上でひとり、満月のような金色の瞳を灯して。
剣と糸
一陣の風が吹く。それを彼が胸いっぱいに吸い込んだのと時を同じくして、彼女が姿を現した。凛とした切れ長の瞳、すっきりとした鼻筋、艶やかに結ばれた唇、くせのついた褐色のショートヘア。
女神テミスは、身を包んでいる絹の衣を風になびかせて、こちらをまっすぐ見ている。彼は、強烈な歓喜に思わず声を震わせた。
「逢いたかった」
そう言うと、ゆっくりと彼女に近づこうとする。ところが、彼女は寂しげな表情で、それを拒絶した。
「どうして」
「月読。いつまで泣いているのですか」
「えっ」
テミスの言葉に、彼ははじめて自分が泣いていることに気がついた。
「なんのために、心に痛覚が存在するのか、わかりますか」
テミスはなおも続ける。
「私が逢いたかったのは、規則性をもって姿を変える月を司る存在。規則とはすなわち、秩序の端緒ですから」
「私は……」
「今のあなたは、過去という不可逆で不可侵なものに拘泥して、叶わない願いを喚き散らす幼子に同じ。もしもこれ以上、そんな見苦しい姿を晒し続けるというのなら、私は容赦を知りません」
戸惑う彼に、テミスはすらりと剣の刃を向ける。
「心に痛みを知るのは、有意、有理かつ有為の者の役割です」
「私が泣いているのは、テミス、貴女を想ってこそ」
「言葉にすればするほど、想いというのは遠のきましょう。私たちに必要なのは、きちんと永訣を受け入れることです」
「そんな――」
テミスは、満月から垂れて彼の体を繰っている無数の細い糸を、剣で流麗に断ち切った。景彦の体があっけなく倒れて、満月は焦燥に染まる。
草原に横たわる景彦は、肩で呼吸をしながら、「テミス」と必死に発した。
「俺は、貴女を絶対に忘れたくない。だから……決して、貴女を赦さない」
「望むところです」
金色の満月が徐々に青白く変貌していく。それに共鳴するように、景彦の顔から血の気が引いていく。視界がぐにゃりと歪んで、そのまま舞台に幕が下りるように、景彦は静かに意識を失った。
夏の終わり
気がつくと、夜の公園のベンチに座っていた。びっしょりと汗をかいている。すぐにスマートフォンのフォトアプリを開いた。
祖母のデータが消えている。愕然として天を仰いだ。月の姿はどこにも見つけられなかった。
――お前なら、大丈夫よ。
景彦は顔を両手で覆い、しばし咽び泣いた。
〈END〉