(一)
梅雨明けしたある日の夕方、二人の家に来客があった。くたびれたワイシャツにノーネクタイ、チノパンといういでたちの五十歳過ぎの男性だった。
ドアを開けると、男性は恭しくお辞儀した。
「この度は、ご協力まことにありがとうございました」
「やめろよ、わざとらしい」
裕明の――いや、智行の眉間にしわが寄る。男性はニカっと笑って菓子折りを差し出した。
「茶でも淹れろ。謝礼はすでに振り込んであるが、これは俺からのほんの感謝の気持ちだ」
「自分が食いたいだけじゃねえの? どうせ経費で落としたんだろ」
「あたり」
訪れたのは、警視庁八王子署の刑事、若宮史郎だ。そして応対しているのは裕明ではない。彼の別人格、智行である。
若宮は粗雑に革靴を玄関に脱ぎ捨てると、部屋の中を見回した。
「きれいにしてるじゃんか」
「綺麗好きなやつがいるおかげでね」
綺麗好きなやつとは、他でもない裕明のことだ。
リビングのテーブルに「どっこいしょ」と腰かけた若宮は、開口一番こう告げた。
「今回の事件には正直、俺たち警察は音を上げていた」
智行は冷蔵庫を開けて、シンク横の食器入れに洗っておいてあった大ぶりのグラスに麦茶を注いだ。
「占いってのは、すごいんだな」
「……さあね。俺は知らない」
目の前に置かれた麦茶を見て、若宮は「外は暑いんだから、氷くらい入れてくれよ」とぼやいた。
蝉たちが鳴きはじめるにはまだ早いが、夏至に向けてだいぶ日は長いらしく、放課後を迎えて外遊びをする子どもたちのはしゃぐ声がマンションの4階まで聞こえてくる。
少女が5人も惨殺された事件は、梅雨明け間近に急展開し、容疑者が逮捕された。突如として犯人が自首してきたのである。それも、かなり錯乱した様子で「助けてくれ」を連呼しながら自宅近くの交番に駆け込んできたというのだ。
「どんな心理なんだ? 人を殺したあとって」
単刀直入な若宮の質問に、智行はニヤリと笑った。
「ヨーギシャに直接訊いてみればいい。俺は何も知らない」
「佐久間の仕業だもんな」
「『仕業』じゃなくて、この場合『参考』と呼んでほしいね。あいつだってたまには他人様の役に立つのさ。ま、俺からしたら誰が誰の役に立とうが立たなかろうが、知ったことじゃないけど」
若宮は鼻をすすって、ため息をついた。
「俺がここに来たのは、ただ菓子を食いに来たわけじゃない。引き続き協力をしてもらいたいからだ」
「なんでだよ」
「容疑者は完全に精神的にイカレた状態だ。今は辛うじて留置所に置いている。精神科医たちも弁護士たちも、異口同音に精神鑑定を要求している」
その言葉に、智行は「ふん」と呟き、愛想なく若宮から目を逸らして窓の外を見やった。
盛夏を待ちわびるかのような白い雲たちが、ぽっかりと青空に遊んでいる。近所でサッカーをしているらしい小学生たちの楽しげにはしゃぐ声が響いてくる。
「本当にあいつが精神鑑定の対象なのか、見極めたい。クズみたいな猿芝居をしているようにしか、俺には見えなくてね」
「すぐには返事できない」
「報酬なら弾む」
「いくら?」
「明示はできないが、ゼロを増やせるよう調整はする」
智行は若宮に聞こえよがしに舌打ちした。
「すぐにとは言わない。だが、いい返事を待ってるぞ」
どうやら誰かがゴールを決めたらしい。いっせいに小学生たちの歓声が湧きたった。