「こちらです」
佐久間が通されたのは鉄柵で仕切られた狭い空間だった。もうすぐ真夏だというのにエアコンが効きすぎているせいで肌寒い。一緒に入室した若宮はわざとらしく咳ばらいをした。
「藤原龍太。二十三歳の元会社員だ。容疑は、既に知ってるよな」
「どうも、藤原さん、こんにちは」
佐久間は笑顔で、檻の向こうに座り込んでうな垂れている男に挨拶をする。しかし藤原と呼ばれたその男が応答をすることはない。壁に向かってなにやらぶつぶつと唱えているのだ。
「ずっと、この調子でな」
「そうですか」
佐久間は若宮にパイプ椅子を持ってくるよう依頼し、「しばらくこの彼と二人きりにさせてください」と、独特な圧力のこもった声で頼んだ。ただならぬ佐久間の雰囲気に若宮は「十五分以内で頼む」と念押しして、椅子を持ってくるやいなや姿を消した。
「さて。藤原さん」
椅子に腰かけた佐久間は悠然と脚を組んだ。藤原は壁に人差し指を這わせて、「し」と「ね」を書く動作を先刻から繰り返している。
「5人。よくそんなに殺しましたね」
佐久間は藤原に見せつけるように、指を五本立ててパーの形を作った。
「それもすべての被害者にバラバラのマークをつけて致命傷にするなんて、なかなかの労力だ」
藤原は一向に佐久間と目を合わせようとしない。
「一人目は星の形。二人目はハート」
広げた指を、被害者の致命傷を列挙するごとに折ってゆく佐久間。
「三人目はクローバー。四人目は雫の形」
細長い指先が、冷たく拳を成してゆく。
「そして五人目は猫の顔」
藤原の背中がかすかに震えているのが、佐久間には手に取るようにわかった。
「悪趣味にも程があります。少女趣味といったほうが正確かな」
佐久間の鋭い視線が藤原に突き刺さる。
「知ってしまったんですね、逃げられないと」
佐久間はチノパンのポケットから自分のスマートフォンを取り出した。
「これ一つで、誰もが何もかもを知ったつもりになれる。便利な時代です」
佐久間はスマートフォンの画面に「八王子 殺人 藤原」と入力した。検索候補にはこの男を糾弾あるいは誹謗中傷する文言が羅列して表示される。
「あの街もずいぶん監視カメラだらけになりました。新宿や渋谷よりも往来が少ない分、監視カメラで不審者を特定するのは造作もないことだそうです」
藤原は佐久間に背を向け、コンクリート製の床をじっと見ている。
「もしも、どこか間違っていたら訂正願います。自分より腕力の弱い少女ばかりを狙って『誰でもよかった』は嘘ですよね。要は――」
佐久間は藤原の態度に構うことなく怜悧な口調で続ける。
「誰からも相手にされなかったから、被害者たちをはけ口にした」
ここで初めて、藤原が小さく反応を示した。
「……違うんですか?」
佐久間は藤原を試すような口調である。
藤原の背中が、にわかに震えはじめる。
「違ったら教えてください。どこがどう違いますか」
そういうと、佐久間はスマートフォンでとあるブログを開いてみせた。
「いま、こんなブログがバズっています。『真実追求系ジャーナリスト・ナオキのブログ』」
「……?」
「ここでトップに固定されているのは、『殺人鬼に人権は必要か』というタイトルの記事です」
佐久間の目が悪魔のような色彩を醸し出しはじめる。
「『狂っている』ことにすれば、どんな残虐な犯行でも死刑だけは免れるというのは、とんだ誤りです」
「え……」
藤原の口から、間の抜けた声が漏れる。佐久間は容赦なく言葉を紡ぎ続ける――さながら死神の宣告だ。
「心神耗弱というのはそんな生ぬるい状態ではありません」
藤原のらんらんとした目が、はじめて佐久間をぎろりと捉えた。
「ほら、あなたは狂ってなどいない。怖いんでしょう? 5人も殺したくせに、自分が死ぬのは、怖いんでしょう? とんだチキン野郎ですね。そりゃあ誰からも相手にされなくて当然で……」
「殺した奴らはさぁ」
佐久間の言葉を遮り、突如として藤原は饒舌多弁にしゃべり出した。
「薄汚かったんだよ。その汚れを俺はこの手で綺麗にしたんだよ。公衆衛生ってやつさ。むしろ感謝してほしいね、俺は何も悪くない!」
「ですって、若宮さん」
鈍い軋みをあげて鉄扉が荒々しく開かれると、若宮が鬼のような形相で部屋に入ってきた。佐久間の肩を軽く叩き、「十五分もかからなかったな」とねぎらって、若宮は藤原のほうをちらりと見やった。
「藤原、安い芝居は仕舞いだ。精神鑑定のリクエストにはお応えできない」
「えっ」
「せいぜい怯えてろ」
「な……」
無力な殺人鬼は、力なく壁にもたれかかってそれきり言葉を失った。
話を聞き終えた美奈子は、「そっか」とだけ返した。
「ごめんね。怖い話をしてしまったね」
「ううん。頑張ったじゃない。よかったよ、無事に終わって」
「ありがとう」
その日は湯ぶねに炭酸泉の入浴剤を入れた。佐久間から人格の戻った裕明がひどく疲れた様子で、珍しく本人から「しんどい」と訴えがあったからだ。
自分にできることは少ないけれど、その「できること」を精一杯したいと、美奈子は切に願っている。
湯上りの裕明の肩を肘でマッサージしながら、美奈子はこう提案した。
「私、有給休暇取ったんだ。ひさびさに『お父さん』と『お母さん』に会いに行かない?」