二人は八王子駅から新宿方面の中央線に乗り、乗り換えの立川駅ではエキナカのベーカリー「キィニョン」で美奈子お気に入りの焼きカレーパンをゲットした。
その後、青梅線ホームに移動して、二人は待合スペースに移動した。青梅線は平日のラッシュ時間帯以外は一時間に五本程度しか運行されていない。折り返しの始発電車が到着したので、美奈子は椅子から立ち上がった。
「裕明、行こう」
ところが裕明は体を硬直させてしまったらしく、なかなかベンチから離れることができない。美奈子は背負っていたリュクサックからピカチュウのぬいぐるみを取り出し、裕明に渡した。
「行こう、秀一くん」
すると彼は視線を数秒泳がせ、すぐさまぬいぐるみを美奈子から受け取ると、それを抱きしめた。
「うん!」
青梅線はドアの開閉がボタン式で、緑色に点灯するボタンを押すとドアが小気味よいチャイム音とともに開いて二人を迎え入れる。その他の客は高齢者が多かったが、平日ということもあってか、昭和記念公園にレジャーに行くと思われる親子連れのほかは目立った混雑はない。
案の定、一つ先の西立川駅で多くの乗客が降りたので、それ以降はゆったりと座席を確保できたのがありがたかった。
青梅線は中央線とは「空気感」が違うと美奈子は感じている。美奈子にとって、立川以西ののどかな景色は、自分たちを受け入れてくれるような安心感を与えてくれるのだ。
高いビル群や交差する道路などは見えない。徐々に深まりゆく緑色が、人々の負の感情を鎮めてくれる、そんな気すらしている。
立川駅から奥多摩駅まで直通する列車が利用する時間帯には存在しないため、二人は青梅駅で降りて乗り継ぎの電車を待つ。その間にホームのベンチに隣あって座り、キィニョンで買った焼きカレーパンに同時にかじりついた。
この夏の暑さは異常ともいえて、早くも熱中症で亡くなる人のニュースが流されるほどだ。駅のホームの屋根の陰にいるとはいえ、汗がつぎつぎに額や首元に噴き出してくる。
二人は強烈な喉の渇きを覚えて、美奈子が水筒をカバンから取り出し、家で補充してきた麦茶を一緒に飲んだ。
やがて目当ての列車がホームにやってきたので、ボタンを押して車内に入ると、しっかりとクーラーが効いていて、二人はホッと一息をついた。
青梅駅から先、終点の奥多摩駅までの区間には、「東京アドベンチャーライン」という愛称がつけられているそうで、観光目的と思しき乗客もちらほらいたものの、こちらも余裕で座ることができた。
終点に近づくにつれ、乗車よりも降車する客のほうが多くなり、奥多摩駅に着いた時には車両に乗っていたのは二人だけだった。終着の奥多摩駅でホームに降りたのは彼女と、高齢の夫婦だけだったように見えた。
美奈子は出発から実に二時間以上かけて奥多摩駅に到着した。13時28分に奥多摩駅前を始発で発車する清東橋行のバスに間に合うよう、駅構内のトイレで用を足してバス乗り場へ向かう。
奥多摩駅からは徒歩で五分も行けば日原川の河川敷に出ることができる。今時期はバーベキューなどで盛り上がる若者も多いようだが、彼ら彼女らのほとんどは車でここまでやってくるため、電車やバスが混み合うことは滅多にない。
少し先の時期なら「奥多摩納涼記念花火大会」の日に毎年、花火大会実行委員会の公式ツイッターアカウントから混雑予想などが出るほどの盛り上がりをみせるらしいが、二人には全く関係のないことだ。
目的地近くのバス停で降りた美奈子は、タッチしたPASMOをカバンにしまうと、都心とはひと味もふた味も違う澄んだ空気を胸いっぱいに吸い込んだ。一緒に降りた秀一が、ぽとりとぬいぐるみを落とした。
「裕明?」
「……ん」
「行こう」
バス停から緑の深い側道をさらに五分ほど歩いてようやく、こぢんまりとした奥多摩よつばクリニックの玄関口が見えてくる。ログハウスと見紛うつくりの小さな精神科で、入口付近には自生する植物に混ざって、いつも丁寧に手入れされた四季折々の花が咲いている。
今日は色とりどりのダリアが目を楽しませてくれた。
奥多摩よつばクリニックは精神科単科を標榜しており、一般的な偏見とともにイメージとして持たれがちな薄暗さなど皆無の医療機関である。むしろこの時期ならではの厳しい陽光を、堂々とそびえる樹々がほどよく遮ってくれるので、木漏れ日が心地よい空間に静かに佇んでいる。
そこは「冷徹な白亜の巨塔」と違い、外観からして訪れる者を分け隔てなく受け入れる「寛容と余白」を醸し出しているかのようだ。
自宅からここまでたどり着くだけでも体力的にはじゅうぶん疲れるのだが、二人にはそれだけの労力をかける理由があった。
「裕明っ、美奈子ちゃーん!」
院長の木内が、玄関に姿を現して「元気っ?」と二人を出迎えた。
「元気じゃないから来たんですってばー」
美奈子が苦笑いして手を振り返す。
「そうかそうか。いやぁ、よく来たね!」
木内は口元がすっかりほころんでいる。久々の「息子」たちとの再会が嬉しくてたまらないのだ。
「先生。裕明、久々に調子がとても悪いみたいなんです。人格交代の消耗がひどくて、私ともなかなか会話してくれないんです」
「うーん、そっか。何かあった?」
「いろいろあってよくわからないです。こういう時は、先生に会いに行こうって私が提案して」
「それは嬉しいなぁ」
「ふつう喜びますか」
「え、ダメ?」
こんな調子の木内だが、医師としての腕前は確かなようで、この奥地までわざわざ訪ねてくる町外の患者もいるほどだ。木内は、美奈子の横で虚ろな表情で直立不動の裕明の目をじっと覗きこんだ。
「ちょっと、疲れてるね」
「……」
「裕明。僕の声が聞こえてたら、右手を上げてみて」
「……」
裕明に反応はない。どこか近くで、野鳥の高い鳴き声が響いた。
「こんな場所じゃあれだね。中へおいで。岸井さんがとっておきの料理を作ってくれているよ」
木内は、裕明の両肩を優しく叩いた。
「美奈子ちゃん。お仕事はおやすみ?」
「はい。今日と明日。でも、原稿を書かなきゃならないんです」
「原稿? 美奈子ちゃん、執筆してるの?」
「いえ、いえいえ、ただの埋め草です」
「すごいじゃない。インクにのって印刷されて、いろいろな人に読まれるわけだ。何を書くの?」
美奈子は裕明の頬をツンとつついた。それでもやはり裕明に明瞭な反応はない。
「……私と、裕明との……」
「うん」
「私たちの生活で感じていることを、エッセイみたいにしてみようかなって」
「なるほど。面白そうじゃない、できたら読ませてね」
美奈子は原稿の締切が迫ったタイミングで二日も休むことを許しくれた小瀬戸のことを木内に伝えた。すると木内は心底嬉しそうに「あいつらしいなあ」と呟いた。
「じゃあ、一息ついたら食事にして、その後に僕の書斎を使っていいよ。きっとはかどるだろうから」