木内と岸井が普段プライベートを過ごす部屋には、レンガ造りの暖炉が設えられている。木内は「大丈夫、夏だから火なんてつけないよ」とわざわざ裕明に伝えた。それは、揺らめく炎が裕明にとって最大のタブーだからだ。
それでも、裕明は注意深く炉を覗き込んだ。そんな彼の背中を、木内に、優しく手を添える。裕明は木内に導かれるままロッキングチェアに座ると、しばらく緩やかな揺らぎに身を任せていた。
「移動だけでも疲れるでしょう。今夜はゆっくりおやすみ。クーラーはつける?」
木内が窓を開けると、涼やかな夜風が入ってきた。
「その必要はないか。天然の風のほうがいいね」
「美咲!」
ロッキングチェアの上で裕明は、突然女性の名前を呼んだ。その名前に木内はひどく胸を痛めたが、動揺をなるべく表に出さないように、努めて冷静に裕明に声をかけた。
「思い出してしまうのかい?」
「助けてやれなかった」
「裕明はなにも悪くないよ」
裕明は部屋の壁にかけられたアンリ・マティスの「赤のアトリエ」絵画を睨み、その瞳からぽろぽろと涙をこぼしていた。
「父さんが、一番ひどかった。全身めった刺しさ。原型なんて、留めてた? 母さんは止めに入ってやられた。ずっと悲鳴をあげていたよ、『やめて!』って。バカじゃないの? やめるわけないじゃん。恨まれたんだよ、すごく。当たり前じゃないか。だって父さんが死なせたんだ、あの子を。当然の報いを受けたんだ」
「裕明」
「でも、なんで美咲まで殺したの? 美咲は何も悪くなかったのに」
「裕明、深呼吸して」
「僕がいけなかったの? ねぇ、教えてよ」
「お前は何も悪くないよ。さあ、涙を拭いて」
木内は木綿のミニタオルで裕明の頬を流れる涙をぬぐってやった。
忌まわしい過去を「裕明」自身が語るのは、相当に心身に負荷がかかっている証拠だろう。
裕明はそれからもぶつぶつと何か呟いていたが、
「僕はだめなんだ!」
突然、空気を裂くような声をあげた。
「しあわせになんてなっちゃだめなんだ、だめなんだ」
木内は静かに首を横に振る。
「違うよ。今はそう思えなくても、お前はしあわせになっていいんだ」
「だって、『だめだ』って言ってる」
「誰がだい?」
「名前を失ったひと」
木内はたまらなくなって、裕明を抱きしめた。涙をこぼし続ける裕明は、静かにまぶたを閉じた。