第三話 落ちる

(四)

木内から借りている書斎は、たくさんの医学書と同じくらい多くのソフトボールに関する本が置かれていた。

木内の学生時代からの趣味はソフトボールで、地元の有志を募って「奥多摩クッキーフォーチュンズ」というチームを結成している。その中でも木内は不動の4番バッターにしてエースピッチャーである。

銀色の振り子が規則正しく揺れる置き時計を眺めながら、美奈子はため息をついた。

(集中できない)

明日までにメールで入稿しなければならない埋め草エッセイの筆が、どうしても進まない。自分と彼の日常生活を切り取ると決めたはいいが、実際、作品という形にしようとすると何からどう書いていいかわからない。

気分転換をしようと、美奈子は書斎を出て静まり返ったクリニック内をこっそり散策することにした。

クリニックの患者さんたちが作っていると思しき折り紙作品や絵画が飾られている色彩豊かな待合室が、夜になると月明かりで浮かび上がって神秘的な雰囲気を醸し出している。美奈子の耳に響くのは、年季の入った柱時計の秒針の音だけだった。

窓を覗けば、柔らかい沈黙に全身を預けているダリアたち。見上げれば、澄んだ夜空に灯る夏の星たち。美奈子は待合室のソファに腰を掛けると、両手で顔を覆った。

――今だ。今なら、自分を許してあげてもいい。

(……ごめん)

美奈子の目から、止めどなく涙が溢れだす。

わかってる。彼はとっくに「その瞬間」を迎えている。わかっていて、それでも愛していると、間違いなく愛していると、誓ったはずなのに。

泣くことは、裕明に対する裏切りだろうか?

(……きっと、違う。私が、強がりなだけだ。意地っ張りなだけだ。誰も悪くない。だから、私だって、悪くないんだ。)

美奈子はひとしきり泣いたあと、そのままソファに横になった。