第三話 落ちる

柱時計が午前零時を告げ日づけが変わった頃、彼女を迎えにきた人影があった。

「あ……先生」
「どーも。こんばんは」

木内はチェック柄のパジャマ姿でマグカップに麦茶を入れて美奈子に差し出した。

「こんなところで横になっちゃ、夏とはいえ体に毒だよ」
「ごめんなさい。でも私、今日もきっと眠れません」

木内は首を少しだけ傾げた。

「ひょっとして、泣いてた?」

岸井さんが聞いたら「デリカシーのないことを訊かないの!」と叱られてしまいそうな問いかけだが、美奈子は素直に返答した。

「はい。少しだけ」
「そうか、そうだよね。ごめんね」
「謝らないでください。泣きたい時に泣けない私がいけないんです」
「……不安かい?」

木内の問いに美奈子は力なく答えた。

「私は、決めたはずでした。裕明も、秀一くんも、智行さんも……佐久間さんも。みんな、ちゃんと愛するって」
「うん」
「でも、時々怖くなるんです。私なんかじゃ、彼を、いえ彼らを守れないんじゃないかって」
「一人で抱えることじゃないよ」
「わかってます、医学じゃきっと解決しない」

ふさぎこむ美奈子に、木内は「そうじゃくてね」と言いたいのをこらえ、しばし思案した。少しだけ開かれた窓から、小夜風がふわりと待合室に入りこんでくる。

「……虹って、雨が降らないとさ、かからないでしょ」
「え?」
「でさ、見上げないとその虹は見えないんだ。不思議だよね、ほんと上手いことできてる」

不思議そうな表情の美奈子に対し、木内はこう続ける。

「人間、最後にはお天道さまを向くようにできてるんだね。みんなそう。誰でも、きっとそう」
「先生……」
「美奈子ちゃんが誓ったのなら、大丈夫。そうじゃない?」
「そうでしょうか」

美奈子はまたしてもほろほろと泣きだしてしまう。それを見た木内は微笑んだ。

「泣けたときが、泣きどきだったんじゃないかな。それに、ほら」

気がつけば、待合室に人影が増えている。美奈子は気づいて、すぐに振り返った。

「……美奈子」

はにかんだような、気恥ずかしげな感情を浮かべ、そこに裕明が立っていた。二人を介するように、木内は話を続ける。

「時計の針は、一方通行だ。決して巻き戻らない。だからこそ、人と人の出逢いは宝物。そして命は、果てしなく尊い」

それは、それがいつか必ず失われてしまうからだと皆が知っているからこそ。

「美奈子、ごめんね。心配かけたね」

裕明がゆっくりと歩み寄る。二人が抱きあうのに、時間はかからなかった。

「ううん、いいんだ。私にできるのは、裕明を心配することだけだから」
「そんなことない。僕は美奈子からたくさんをもらっているよ」
「そっか。ありがとう」
「ありがとう」

互いに感謝の気持ちを素直に伝えあえる関係は、彼らに病や障壁があろうと、極めて良好だ。木内はほっと胸をなでおろした。

「裕明、眠剤、飲んだ?」

美奈子が裕明の瞳をのぞく。裕明はまばたきを返した。

「うん。十五分くらい前に」
「じゃあ、そろそろ効いてくる頃だね。私も飲もうかな」

美奈子は振り返ったが、

「ねぇ、先生――」

そこに、木内の姿はもうなかった。

「あらら」
「二人きりにしてくれたんだね」

美奈子と裕明はおでこをくっつけあって、微笑みあった。

「何度でも壊れていいんだよ。でも、きっと戻ってきてね」
「うん」
「大丈夫だから、安心してぶっ飛んでね」
「うん」
「大好きだよ」
「……ありがとう」

ようやく、二人の長い一日が終わる。柱時計だけが、全てを見ていた。

第四話 真相 へつづく