(一)
奥多摩の朝は空気が非常にしんと澄んでいる。岸井の手作りパンケーキに舌鼓を打ち朝食を済ませた二人は、クリニックの周辺を散策していた。
「たまにはいいね、こういうのも」
美奈子は嬉しそうに裕明の腕に自分の腕をからませる。緑豊かな道には、季節の草花たちがいきいきと、どこか誇らしげに咲いていた。
「ねぇ、裕明。みて、見たことない花」
小さなピンク色の花びらをもつそれの名前を、二人とも知らない。
誰にも知られなくても、名前などなくても、その花は咲いている。ただそこに、静かに咲いている。まっすぐに、お天道様に向かって。
「しばらく気にも留めなかったなあ。こういう時間、忘れてた気がする」
「僕もだよ。『仕事』に追われてばかりで」
「そっか。大変だね、占い業も」
いわれて、裕明は気恥ずかしそうに笑った。
「皐月さんもいってた。『ベストを尽くそうとすれば足元から崩れるから、尽くしたりせずベターと仲良くなりなさい』って。でも、僕はお金をもらってひとさまを占うことに自信がない。だから、もっと頑張らないといけないのかなって」
憂う裕明に美奈子は、何度も首肯した。
「そうそう。常にベストを出すなんてむりだよね。きっとみんなそうだよ。頑張ってない人なんていない。逆に頑張りすぎて失敗しちゃうのかもしれないね」
美奈子は「あーぁ」とあくびまじりにぼやいた。
「私もそうだもん。この前なんてさ、大作家先生に頭を下げたら『それは嫌味か? 締切破りな俺への当てつけか。あんたが頭下げたら原稿がポンと出てくるのか』って。さすがにへこんだな」
裕明は美奈子の頭にポンと手を置いた。
「美奈子は悪くないよ」
美奈子もその手を握り返し、
「うん」
小さな森の中で、朝の涼やかな日と風に守られながら二人はキスを交わした。