二人が自宅に戻るというので、木内と岸井は診療の合間を縫って見送りにきてくれた。
「ありがとうございました。お忙しいところ、本当に感謝してます」
美奈子がお辞儀をするのに倣って、裕明も頭を下げる。それに対して木内は手をひらひらとさせた。
「いいのいいの、水くさいじゃない」
「そうよ、またいつでもおいでなさい」
「はい!」
美奈子が元気よく返事をし、裕明がにこりと笑んだ直後に、一日に数本の奥多摩駅行きバスがやってきた。
バスがカーブして見えなくなるまで、木内と岸井は手を振っていてくれた。
バスが走ること十五分、ようやくwi-fiの電波が入るようになった。途端に裕明のスマートフォンにメール着信を報せる振動がする。
「あらあら裕明さん。急に仕事という現実がやってきましたな」
隣の席で美奈子が茶化すが、裕明はさらりとこう返した。
「美奈子。原稿は今日がデッドラインじゃなかったっけ」
「あー! しまった」
美奈子は思わず頭をかかえた。しかしすぐさま自分のスマートフォンを取り出すと、「虹をみよう」というタイトルで原稿をメモアプリに書き留めはじめた。
バスはのんびりと終点を目指す。他に乗客のいない貸し切り状態だったので、二人は各々の作業に集中することができた。
届いたメールの差出人欄を見た裕明の表情が硬くなる。そこには「ナオキ(真実追求系ジャーナリスト)」と表記されていた。
件名 最新追加情報
突然のメール、失礼します。
藤原龍太について追加情報があります。
最新記事にまとめましたので、以下のリンクから僕のブログをご覧ください。
「無視しちゃえば?」
勝手に裕明の手元を覗き込んで不機嫌になる美奈子。しかし裕明は、
「仕事は仕事だからね、ご丁寧にリンクまで貼ってあるし。しょうがないよ、見てみる」
しかし、リンク先の記事を読んだ裕明の表情がすぐに曇った。
「これは……本当なのか?」
殺人鬼藤原龍太の真の犯行目的! それは「復讐」だった!
「復讐?」
「美奈子、画面のぞかないでよ」
「復讐って、どういうことかな」
「原稿書きなって」
「はーい」
裕明はスマートフォンの画面をスクロールさせて、ナオキのブログに目を通す。そこに記されていたのは、くだんの連続少女殺害事件の被害者たちが皆、同じ中学校出身だったということ、その中学校で被害者らが在籍時に一人の女子生徒が自殺していたこと、しかもその自殺した少女は藤原の妹だったという、にわかには信じられない内容だった。
「えっ! 本当なのかな」
驚く美奈子の頭にそっと手を乗せ、裕明はため息をついた。
「小瀬戸さん、首を長くして原稿待ってるんじゃないかな」
「ごめん……」
裕明は険しい表情で記事を読み進めた。ナオキのブログには煽るように、こう書かれていた。
八王子市立第九中学校校長と教育委員会が隠ぺいを続ける悲劇的な事件!
卑劣ないじめにより、過去に生徒が自殺していた!
自殺した少女、玉川めぐみは殺人鬼・藤原の実の妹!
両親はすでに離婚し、藤原は母親の姓を名乗っていた!
連続殺人事件の被害者たちは玉川めぐみを死に追い込んだいじめの加害者だったのだ!
今後、第二第三の藤原が出現すること必至!
エクスクラメーションマークは多用するものではないと、裕明はつくづく感じた。裕明の眉間に刻まれたしわをさらに深くさせたのは、もう一通、ナオキからのメールと同時に彼のもとに届いていたメッセージの存在だった。
件名 無題
はじめまして。私は今高校生です。
今は違うけど、昔いじめをしていました。
八王子でいじめっ子がたくさん殺されました。
それで自分が変なやつに殺されないか心配です。
どうか、占ってください。
みゎ
メールには、手相でも占わせたいのか「手のひら」の写真が添付されていた。その画像を目にした裕明は、すぐ横でスマートフォンに真剣に原稿を打ち込んでいる美奈子に気づかれないようため息をついた。そして手短に、この「みゎ」とやらに返信をした。
件名 Re:無題
この度はメールをありがとうございました。
手相を拝見しました。こちらの手に関しては、特別、お伝えすることはございません。
あなたの良心の赴くままに、事態は動くでしょう。
いじめをされていたとのこと、心より同情申し上げます。
それでは、失礼します。
「なんか、冷たくない?」
懲りずに画面を覗きこんできた美奈子にそういわれても、裕明は表情一つ変えない。
「いじめをする人間にかける言葉なんて、僕は持ち合わせてないよ。ましてや自分に害が及ぶかもしれないとなった途端に人にこんな画像を送り付けてくるような輩は、相手になんてしていられない」
「確かにいじめは下劣で卑怯だけど、この子も悩んでたんじゃないの? 写真まで送ってくるくらいだもん」
「美奈子、きみは優しすぎるよ。いじめの深刻さや残酷さを、きみは身をもって知っているはずでしょう」
「それは、そうだけど」
美奈子が高校を中退した理由のひとつが、同級生からのいじめだった。父親がアルコール依存症で精神科に搬送されたことが噂となり、「可哀想な子」と揶揄され続けたのだ。
美奈子の父親は大手の商社に勤めるサラリーマンだったが、長引く不況でリストラの対象となり、マイホームのローンを抱えながらの転職活動を余儀なくされた。
そこに大学進学を控えた美奈子が反抗期に突入していたこと、妻である美奈子の母からの「早く次の勤め先を決めて」というプレッシャーなどのストレスから毎晩、浴びるように酒を摂取するようになった。もともと体質的にアルコールに弱かったこともあり、不調はすぐに心身両面に現れはじめた。
まず身だしなみに無頓着となり、ジャージ姿で自宅から歩いて行けるコンビニ程度の外出しかしなくなった。コンビニで酒を買い込んでは母と衝突を繰り返した。
やがて眼球の黄ばみと違和感、体のだるさを訴えて近所のクリニックにかかった父だったが、そこの医師からはアルコールを控えるように言われただけで、特段の配慮は得られなかった。父の体調を不安視した母は、自宅の中にある酒類の瓶や缶を徹底して捨てた。父が母に暴力を振るったことは想像に難くない。
最初こそ耐えていた母だったが、目立つ場所には怪我を負わせない父のやり方に卑劣さと怒り、不信を相当募らせていたのだろう。
何をどこまで耐えるべきかと思い悩んでいたある夜、暗がりで父が台所で冷蔵庫を開けっぱなしにし、無我夢中でみりんを舐めていた姿を目撃してしまった母は、声にならない悲鳴をあげて寝室に戻り、震える手で携帯電話から119番通報をした。
「夫が、おかしくなった!」
救急隊員たちが駆けつけると、父は抵抗のために暴れに暴れた。それを「異常な興奮」と見做され、父はそのまま都心の病院に入院となったのである。
父親が搬送、というより連行されていく一部始終を、当時すでに不眠の始まっていた美奈子は、泣くこともできずに物陰からただじっと見ていた。
その出来事から数週間後のある日、美奈子が高校から帰ってくると、スーツ姿の見知らぬ中年男性が美奈子を笑顔で迎えた。
「おかえり、美奈子ちゃん」
「……どちらさまですか」
蚊の鳴くような声の美奈子の問いに答えたのは、疲れきった顔色を上機嫌で覆った母であった。
「新しい、あなたのお父さんよ」
「え」
「はじめまして、美奈子ちゃん。紗絵子さんに似て、とてもかわいいね」
にこやかに母親を名前で呼ぶその男性に美奈子は薄気味悪さを覚え、そのまま自室へ走って逃げた。
「あぁ、驚かせちゃったかな」
「仕方ないわよ。あの子の半分には、落伍者の血が流れてるんだから」
それから新しい父――とされる――男性は、毎週のように高畑家に顔を出しては、その度にやれ腕時計だ、流行りのブランドのカバンだのを勝手に買ってきては押しつけるように美奈子に渡した。
美奈子が頑として自室から出ようとしないと、部屋の入口に「贈り物」を置いて、母とともに外出することが常となった。日付が変わって二人で戻ってきてからは、のんびりとリビングでお茶を飲むなどして過ごしていた。ことの後なのだろう、母も男性も「穏やか」な表情を浮かべ、ときおり指と指を絡ませたりなどしていた。
許せなかった。自分など邪魔だと言われている、そんな感覚があった。
――だったら、邪魔者らしく消えてやるよ。
別の日、その男性が来る前に美奈子は「コンビニに行く」とぶっきらぼうに母に告げ、そのまま中野駅から高尾駅行の中央線に乗った。行き先なんてどうでもよかった。
ただ、涙があとからあとから溢れてきて、自分が情けなくて、父が心配で、母が憎くて、あの男性は怖くて、何をどこからどう考えればいいのかわからないままに、とにかく行けるところまで行こうとした。
自分が泣いたところでどこまでも他の乗客たちが無関心であることが、却ってこの時ばかりは救いだった。名前も知らないあの男性のようにわざとらしく干渉されるのは嫌だったので、美奈子はひたすら独りで線路の続く限り西へと向かった。
電車が途中の立川駅に到着すると、ふと美奈子は懐かしいことを思い出した。まだ幼稚園に入りたてで物心がようやくついた頃のこと。確か立川駅には大きい映画館があって、そこまで両親に連れられてポケモンの映画を観に行ったことがあった。父の大きな右手と母の柔らかな左手は、自分だけのものだった。あの頃は、何の疑いもなく親からのぬくもりを感じていた。独りではないと信じ切っていた。
(きっとぜんぶ、私が悪い子だからなんだ。)
気がつくと、下車してホームの階段を上がっていた。激しい人の往来に身をうずめるようにして歩を進めようとした。しかし、空腹に耐えかねた彼女の足は無様にもつれ、改札階で転倒してしまった。
一瞬だけ周囲の通りすがりたちによる好奇の視線を浴びたものの、互いに無関心同士に戻るのに時間はかからない。美奈子は胸の奥から滲み溢れる悔しさを必死にかみ殺そうとした。
「大丈夫ですか?」
唐突に、家を出てはじめて、声をかけられた。美奈子がおそるおそる目を向けると、そこには父親より少し年上と思しき、くたびれた白いポロシャツを着た男性が心配そうにこちらを覗きこんでいた。それが、他でもない木内であった。
「別に、大丈夫です」
美奈子が木内の差しのべた手を無視して起き上がった時に、非常にタイミングよく彼女の腹がSOSを出した。
「おなか、空いてませんか」
「いえ」
美奈子は恥ずかしさのあまり赤面し、さっさと彼の目の前から去ろうとした。しかし木内が進路をふさぐように立って、首をかしげて問うた。
「おなか、空いてるでしょう」
「いえ」
「よかったらどうぞ」
そう言って木内が紙袋から取り出したのは、ブルーベリーの練りこまれたスコーンだった。
「これね、パートナーが大好物で。僕が神保町に行くと必ず、帰りにこれを売ってくれる立川のカフェに寄って、ゲットしてから帰るんです。本当に美味しいから、ぜひ」
「そんな、それは悪いです」
「ちっとも悪くないです。だから、どうぞ」
確かに、彼の言う通り表面のきつね色が非常に美味しそうなスコーンである。美奈子は唾を飲み込むと、ぎこちなくそのスコーンを受け取った。甘酸っぱい香りを感じると、その場で一口かじるのを我慢できなかった。
「おいひい……」
思わずそう漏らした美奈子に、木内は得意げに紙袋を指さした。
「でしょう。大丈夫、あと4個あるから、好きなだけどうぞ」
「いいえ、それは奥さんに持って帰ってください」
木内は「うーむ」と少しだけ思案した。
「じゃあ、よかったらウチ来ます? 僕のパートナーはね、天下一の料理の腕前なんです」
思いがけない言葉をかけられ、美奈子はおおいに戸惑った。
「でも」
「お急ぎですか」
「あの、行き先は、特に……」
「でしょうね」
「え?」
「僕ね、こう見えて医師なんです。あなたのような目をした人を、たくさん診ています。僕の家、ここからちょっと遠いんですけど、よかったら」
それに対して考えるより先に、美奈子は首を縦に振っていた。
それが、木内と美奈子の出会いであった。