(三)
「遅刻よ、遅刻。刑事が時間を守れなくて誰が守るっていうの」
「だからすまんと謝ったつもりだが」
「『すまん』で済めば警察はいらない」
「自己矛盾ってやつだな」
ニッと笑う若宮の不敵な態度に、西郷はすぐさま警戒心をいだいた。
「どちらさまで」
西郷の視線が泳ぐ。それとは対照的に泰然と若宮は答えた。
「ローズメイの元ボディーガードです」
「やめてよ、笑っちゃう」
盛大に皐月がふきだして若宮の肩を叩く。
「過去とやらが積み重なるのも面倒よね」
「呼び出しといてそりゃないだろ。相変わらず素直じゃないな」
「あら、私のどこがひねくれてるっていうの」
「そういうところだよ」
元パートナーの皐月と若宮に圧倒される西郷。皐月の艶やかなくちびるが「そういうことだから」と動く。
「コソコソ隠れて録音なんてしてみなさい。現行犯で捕まえさせるわよ」
「おい、人をポケモントレーナーみたいにいうな」
「似たようなもんでしょ」
「はいはい……」
西郷はひどく気まずい心地だった。ICレコーダーこそ電源を切っていたが、こっそりタブレットの録音アプリをずっとオンにしていたのを見透かされていたのだから。裕明の師にあたる皐月にも、小手先のごまかしなどは当然通用しない。
「どこにもリークしない。誰にもばらさない。そして二度とあの二人に関わらない。この条件でなら、お話ししましょう。私の知るすべてを」
西郷の喉が唾液の嚥下で上下する。水の入ったグラスの中で、氷が溶けて軽やかな音を立てた。
「どうしてこんな、俺みたいな得体の知れないフリージャーナリストになんて話をするんです?」
「あの子たちを守るためよ」
「え?」
若宮がわざとらしく咳払いをする。
「西郷さん、あんたのしていることは、極めて黒に近いグレーだ。みなまで言わなくても自覚はあるな」
若宮の刺すような視線が西郷を追いつめる。
「皐月には悪いが、勝手に調べさせてもらった。職権濫用ってやつだ」
鼻をスンと鳴らすと、若宮は使いこまれた革製の鞄から古びた茶封筒を取り出した。その切手部分には、十年以上前の消印が捺されている。
「これに見覚えがあるよな?」
目の前に置かれているのは、確かに自分の筆跡だった。西郷の背中を暑さのせいではない汗が伝う。
「やりとりをしていたジャーナリスト気取りの輩はあの頃、掃いて捨てるほどいたからな。特定にてこずった。それが遅刻の正当な理由だよ」
西郷もまた、拘置所にいた佐久間康之と手紙でやりとりをしていた一人であった。
「でも、あんたがふざけたブログを開設しておいてくれたおかげで助かったよ。クビになった職場から持ちだした契約書の画像あるだろ。モザイク処理してるようだが、そんなものはこっちの技術でどうにでも復元できるのさ。あんたの苗字が担当者欄にしっかり書かれていた。この封筒と同じ筆跡でな」
それに驚いたのは西郷だけではなかった。
「ケーサツってそんなことまでできるの? 怖っ」
「言っただろ、職権濫用だって。捜査ってのは、取材なんかよりよほど都合よくて悪質な大義名分なんだよ」
「違いないわ」
「俺からしたら、科学的根拠のない占いで身を立てたお前のほうがよほど怖いけどな」
「褒めてるのよね、それ」
「当然だ」
突然、西郷が両の拳をテーブルに強く叩きつけた。
「どういう意味だよ」
「なにがだ」
「人を有象無象みたいにいうなよ。俺は佐久間と手紙を交わし続けて、佐久間本人から犯行動機を知った人間なんだ。その情報をマスメディアに売ろうとしたよ、でもまったく相手にされなかった。なぜだと思う?」
「……殺された江口医師の背後に、どでかい組織がついていたからだろ」
「そうだよ。なんだよ知ってんじゃん。知ってるくせに、なにもしなかったんだろ、あんたら警察は。拒食症の女がひとり病院の中で自殺したところで、権力に屈して事実をもみ消して、知らぬ存ぜぬを貫く。それがこの社会のやりかたでありかただ。違うか!」
「違わないかもね」
西郷の剣幕にまったく怯むことなく、皐月が応戦する。
「残念ながらあなたの言っていることは概ね当たってる。ほんと、腐ってるよね。でもさ、相手が腐っているからって、自分を腐らせていい理由になんてならないんじゃないの」
「俺が腐ってるって?」
「平穏に暮らす二人のプライバシーを侵害して、ブログをバズらせて広告収入で一儲けしている人間を、ほかにどう表現したらいいのかしら」
「殺人鬼にプライバシーもなにもあるかよ。佐久間は3人殺して家に火まで着けた。悪魔だよ、恨んでいたのは主治医だけだったはずなのに、家族まで巻き添えにするなんて。6歳児まで手にかけたんだぜ。あまりにも外道だ」
「それだけじゃないけどね」
皐月の言葉に、虚を突かれた表情になる西郷。
「さっき、あなたが言ってたでしょう。『佐久間の魔の手を逃れた人間がいる』って」
皐月は西郷の両眼を射抜かんばかりに鋭い眼光を向けた。
「あの子は、あの事件の生き残りなの。でも佐久間の魔の手を逃れてなんていない。あの子はね」
ひと呼吸置いて、皐月は西郷に真実を突きつけた。
「目の前で次々に家族を殺されて家に放火されたの。しかも――」