ゼロイチは、アオにされるがまま何度もしたたかに体を浴室の壁面に打ち付けられていた。背中の羽が何本も無残に散って、その場の空気を乱すようにふわりふわりと待っている。
「やめるんだ、アオ」
僕の制止に対し、アオはぎろりとこちらを睨みつけるだけで言葉を発しない。
「ゼロイチ、どうしてだい」
僕は彼女に声をかける。
「きみの力なら、アオをのけることなんて朝飯前のはずだろう」
「……できない」
「どうして」
「私が手を出せば、この子はあっけなく死んでしまうだろうから」
僕はハッとしてゼロイチの表情を凝視した。彼女の瞳は、子を想う母親のそれだった。僕が言葉を続けようとするより早く、僕の背後から気配がした。
それは、槍のように鋭利に突っ込んできたノイだった。ノイもまた、緑色の雨に打たれて狂乱している様子であった。硬いくちばしが、ゼロイチの脇をかすめる。ノイはそのまま気絶してしまった。
そこへ小さな瓶を携えたミズが現れた。
「人騒がせね。ずいぶんとご機嫌ななめ、みたいじゃない? ボーヤ」
「ミズ、悠長なことを言っている時では――」
「わかってるわよ。いくら私が『無知の者』でもそれくらいはね。で、ちょうど暇つぶしに読んでた本にあったのよ、リョク・ウの解毒方法が」
「それは僕も知っているけれど」
「でしょうね。『全知』ですもんね」
「でもだめだ。その方法は使いたくない」
「どうして? このありさまのゼロイチを見ても、選べる状況?」
「だめだ――」
僕が言い終えるより前に、ミズは持っていた小瓶の中身を一気に飲み込んだ。
「あぁ、せいせいする」
「ミズ、なんてことを……!」
「どうせ無限なんて無意味と同義語よ。限りがあるからこそ、命は美しかったの。永遠なんて望まないことね。ケムリ、あんたみたいな頭でっかちに『無知』から一つだけ教えてあげる。『何も知らない』ことを『知った』時点で、この世界はとっくに綻びを迎えていたのよ」
「……古代ギリシャ、ソクラテスの『無知の知』かい」
「知らない。ただ、私はそう感じただけ――」
言葉の最後が吐血で遮られる。ごぼごぼと音を立てながら、ミズは大量の血を吐き出し始めた。そのにおいに、獣のように反応するアオ。ノイもまた、突然目を覚ましたかと思うとミズが吐いた血の海の中に全身を突っ込ませていった。
緑雨の唯一の解毒方法。それは、大量の新鮮な血液を摂取すること。解毒が遅れれば狂気は全身に巡り、二度と正気には戻れない。そんな物騒なものがある日突然降ってくる。なんの前触れも、なんの感傷も、なんの躊躇いもなく。
アオとノイは浴槽に溜まっていくミズの血液をがぶがぶと飲んだ。それは飢え渇いた野獣がオアシスで泉を見つけた時のように必死であり、またどこまでも悲しくも、僕の目には映った。
アオから解放されたゼロイチは意識を失ってそのままシャワーに打たれている。それでも、彼女の口元にはかすかな微笑みが浮かんでいた。
13 卵 へつづく