13 卵

厄介なことになった。リョクウを解毒した際にミズの血液を大量に摂取したアオに、不要な感情が芽生えてしまったのだ。

不要な感情、それはいわゆる、恋愛感情というやつだ。

ミズは相変わらず平然と下着姿、ときに全裸で自由に読書などをして過ごしている。寒いとか暑いとか、そういう感覚はないのだという。それはともかく、今までならなんてことなかったその光景に対し、アオがひどく動揺しているのだ。

「世が世ならあなたは変態だ、ミズ」

僕がそう言い咎めても、ミズはようやく手に入れた真の自由を謳歌しているようで、まったく気にすることなくソファで何度も脚を組み替えている。

「世が世だから、変態なんてどこにもいないんじゃない?」
「神なら神らしく、豪奢な衣でも着たらどうだい」
「面倒だから嫌」
「そう」

僕を盾にするように、おずおずと視界を泳がせているのがアオだ。

「アオが困っているだろ。目のやり場に困るのは僕も一緒だ」
「あら、それは褒め言葉かしら」
「まさか」

ミズはニヤリと笑ってアオを見やる。アオは顔を真っ赤にして僕のシャツの裾をぎゅっと掴んだ。ミズは茶化すように言う。

「青少年の教育によろしくない、かしら」
「教育がこの世界で無意味なのはわかっているだろう。いくらあなたが無知の者だからって」
「教育は大事よ? 人間を都合よく操作するにあたっては、うってつけの手段だと思うけどね」
「くだらないことを言わないでくれ。いいから服を着て」
「はいはい」

キッチンからゼロイチの声がする。今日はマウルタッシェンという、昔ドイツと呼ばれた国の南部、シュヴァーベン地方の郷土料理だ。かつて宗教上の理由で肉類を食べることはできなかった金曜日にどうしても肉を食べたかった修行僧が、パスタの中に肉を隠して「これなら神様にも見えないだろう」としたことが起源だといわれている。

修行僧ともあろう者が、こんな薄いパスタでくるんだだけで神の目をごまかせると考えたというのは、人間の愚かさやずるさを端的に表しているエピソードだ。

人間が人間であったころ、神は神でいられた。人間ならざる者、つまり人間の範疇をどのベクトルであれ越えてしまったものを、人間たちは「神」と呼びたがった。

だが、今はどうだろう? ここに存在するのは、無知な変態、最後の母親、最後の人間、無能の僕。なにがなんだかわからなくなる。

「いただきます」

しかしこんな世界にも、「いただきます」は欠かせない。パスタにくるまれたなにがしかのお肉は、添えられた赤い実は、ソースに沈むキノコは、元・いのちなのだから。

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「ごちそうさま」


何気ない日々が続く。変わったことといえば、リビング代わりの部屋の隅に、ノイが巣を作って卵を産んだことだ。

「お前、女の子だったのか」とアオは驚いた。

卵は虹色のマーブル模様をしていた。ノイは「ノ~イ、ノ~イ♪」と上機嫌に歌いながら、来る日も来る日も、卵をあたためていた。

別の日、蛍光イエローの雨がぱたぱたと降った。これはリョクウと違って無害なのは知っていたが、洗濯物に色がついてしまうという意味での被害はあった。

「ああ、洗い直しか」

僕ががっかりして蛍光イエローに染まってしまった洗濯物を取り込んでいると、足元にわずかな揺れを感じた。地震だ。地球が人間から解放されて以来、地球はますます自由に暴れている。

有史の時代には考えられなかった現象が起きるのも、人類史末期にリョクウが降ったのも、地球の逆襲といったところだろうか。

だが、その揺れはなかなかおさまらなかった。大きな揺れにこそならなかったが、僕を含めこの家に暮らす4人を動揺させるにはじゅうぶんすぎた。

ノイが幼い少女のような悲鳴を上げたからだ。別室で読書をしていたアオが駆けつけると、リビングに、無残に潰れた虹色マーブルの卵が、青い汁を飛散させていた。

14 因子 へつづく