アオが「工場」で見聞したことを話すのは、ゼロイチをひどく傷つけるだろうと思った。しかし、いつまでも隠しておくのも違うと僕は感じていた。
「つまんないと思った」
アオの感想は以上だ。けれどただ「つまらない」のではなく、アオは恐らく知らないのだ、それ以上の言葉を。
「補足が必要よ」
残ったコロッケを冷凍させるために一つひとつをラッピングしながらミズがいった。
「なぜ『つまらない』と思ったの?」
「面白くないから」
「説明になってないわよ」
ミズがため息をつくと、4096Hzでノイが鳴く。僕は窓を少し開けて夜風がキッチンまで届くようにした。ミズが続ける。
「私の知る限り、だけれど。『ゼロイチの処分命令』が関係しているんじゃないかしら」
僕の背筋に冷たい感覚が走る。
「工場は今も稼働していたのよね? つまり、神々が遺した『天使製造機』はまだ動いているということ」
「ミズ、推測で物を言うのはよしてくれないか」
「どうして?」
僕はたまらなくなって皿洗いをしていたゼロイチを見た。彼女は気にしていないといった様子で黙々と食器の油汚れを落とし続けている。ミズは僕の制止を無視してしゃべり続ける。
「……天罰として、天使にされて。ましてや不良品だなんてね。可哀想に」
「ミズ!」
僕は思わず声を荒らげた。
「『可哀想』なんて言葉を、他人に向けるものじゃないよ」
しかしミズは怯むどころか、切れ長の目をさらに細くして僕を睨んだ。
「ヒトには向けないわよ、それくらい心得てるわ。そもそもゼロイチは自分から人間としての命を捨てたのよ。だから天使にされたんじゃない」
「美味しかった?」
唐突にゼロイチが口を開いた。
「けっこう頑張って揚げたんだけど。コロッケ」
その質問に応じたのは、アオだった。
「もしかしてゼロイチ、怒ってる?」
するとゼロイチは珍しく首肯した。
「そうかもね。『怒る』なんて『感情』、私には必要ないのにね」
ノイが鳴いた。いや、泣いた。まるで少女がしゃくりあげるような声で。
みんなで工場を見に行こうと提案したのはアオだった。「百聞は一見に如かず、っていうんでしょ」などというので、アオがことわざのマンガ本を時々読んでいたのを思い出した。
ここには本や書類ならいくらでもある。さらには猫などの写真集もある。かつてクリニックだったここには待合室に置かれていた雑誌なども残されているからだ。
工場はここから歩いて1時間以上離れた場所にある。いつのまにアオが一人で歩いていったのかと驚きはしたが、もはや規則や倫理の存在しないこの世界においてはさほど不思議なことでもないのかもしれない。
この日はやけに穏やかな気候だった。空は鮮やかな青を広げ、極彩色の雲が滔々と流れている。風はほどんとなく、ノイは機嫌よさげにミズとアオの間を行ったり来たりしていた。
体を動かせば少し汗ばむほどの気温だ。30分ほど歩いた頃に、最初に音を上げたのはミズだった。
「少し休みましょうよ」
「そんな高いヒールを履いているから疲れるんじゃない?」
アオの指摘に、ミズは大きく息を吐いた。
「じゃあ何、そんなおんぼろスニーカーでも履けばいいの?」
「疲れるよりはマシだよ」
「あっそ」
「ふーん、神様も疲れるんだね」
「ちょっとケムリ、あなたこの子にどんな教育をしているの?」
僕はミズの不機嫌を牽制するように返答した。
「僕は『教育』なんてしてないよ。そんなものはもう必要ないだろ」
「確かにそうね」
そんなことを話していると、しんがりで浮遊しながら移動していたゼロイチが、なにを思ったのか急にミズのもとへやってきた。携えていたカゴバッグのなかから何かを取り出してミズに差し出す。
「え、なに?」
「食べたら」
ゼロイチが持っているのは大きなおむすびだった。
「ただの塩むすびだけど、塩分の補給にはなると思う」
「まるでピクニック気分だね」
言ったのはアオだ。それを無視してゼロイチは続ける。
「疲れたらおなかが空く。おなかがすいたら誰だって不機嫌になる。当たり散らされてもこっちが迷惑なの。食べて」
そういわれて憮然とした表情でミズはおむすびを受け取った。いざ手に取ると、お米の一粒一粒がしっかりと立っていて、絶妙な固さで握られており、思わずミズは大きな口を開けてそれを頬張った。塩加減もちょうどよい。
あっという間に一つを食べきったミズに、ゼロイチは今度は水筒を差し出していた。
「麦茶。紅茶じゃなくてご不満かもしれないけれど」
「おむすびには麦茶のほうがいいわ」
ミズは受け取った水筒のふたに注いだ麦茶を一気飲みにした。僕にはゼロイチの心中がどうにも見えてこなかった。
それから工場が見えてくるまで、僕らは黙って歩を進めた。大仰な、しかし錆びついた門の前まで行くと、かつて「ドローン」と呼ばれた物体が一体こちらに気づき、赤いレーザーポインターをあてがってきた。
「ブンセキ カンリョウ。シンニュウシャ ノ カノウセイ 88%」
そいつが機械音でそういうと、サイレンのような耳障りな音を立てて応援を呼びだした。あっという間に、何体もの黒い飛行体に、僕らは取り囲まれてしまった。
「ハイジョ? クジョ? ドッチ?」
僕らは必然的に身を寄せ合う。ゼロイチの背中の羽が、このときばかりは疎ましく感じられてしまった。誰からも聞こえるように舌打ちをしたのは、他でもないゼロイチだった。
8 名前 へつづく