第四話 ライオン

新緑のむわっとした生命の匂い。彼は花壇の横に設えられたベンチに腰掛けて、深呼吸をした。

「皐月、か」

かつて、彼と彼の愛する人が儚い永遠を誓った季節。彼にとっては特別なときだ。箱庭の外ではバラも美しいだろう。あの日、確かに彼と彼女は結ばれた。そう、誓い合ったはずだった。

『真実なんて、曖昧な記憶の集合体だ』。

そういうセリフのテレビドラマが、昔あった。その言葉を証明するかのように、彼女は姿を消した。ある時から、水曜日の午後2時の面会時間には現れなくなったのである。

征二に深い孤独の影が差して久しい。

あの日、あの時、交わしたくちづけの感触を、今でもまだ鮮明に彼は覚えている。愛しい人が、感極まって涙を流す顔も。

だが今、彼の目の前には、『彼女がここにいない』という現実が無情にも転がっている。

それでも、彼は信じて待っている。彼女が再び訪れるその時を。

「綺麗な空だ」

独り言を呟くと、背後に視線を感じた。吉田秀典だ。秀典はくいっと首をかしげながら、

「ねぇー、お兄ちゃん」

ちなみに、秀典は征二よりも年上である。静寂を邪魔されたにもかかわらず、征二はふっと微笑んだ。

「何だい、秀くん」
「面白いもの、見たくない?」
「面白いもの?」

この、箱庭に、面白いものなどあるのだろうか。

「A棟の一階だよ。来て」

秀典は征二の手を握ると、そのまま彼を引っ張った。

「ちょっと待って。本に栞を挟ませてほしい」
「早くー」

箱庭にも、規則正しく季節は巡るようだ。


【カルテNo.5465 藤沢浩子 フジサワヒロコ】

30歳女性。統合失調症。N芸術大学在学中、現実と妄想の区別が困難になり、通院開始。投薬するも症状改善せず、任意入院。それからずっと、入院生活を送っている。


「これは何?」

キャンバスに見立てたA4サイズの紙に描かれていたのは、ライオンの姿。ただし、そのたてがみは真っ赤だ。

秀典のあどけない問いかけに、しかし浩子はニコリともしない。

「見ればわかるでしょ。ライオン」
「どうして真っ赤なの? 餌を食べたの?」
「知らない。そう描けって言われたから」
「誰に?」
「かみさま」
「ふーん」

その様子を、鬼のような形相で見ていた者がいた。見ていたというより、睨みつけていたといった方が適切かもしれない。

皆川アキである。その視線に、当然浩子も気づいていて、だから彼女は面倒そうにアキに言った。

「……何か?」

すると、アキはずかずかと浩子に近づき、

「ちょっと、ひどくない?」
「だから、何が」
「なんで、たてがみが赤いのよ。私への当てつけでしょう。わかってるんだから」
「は?」

そのやりとりを、秀典はニコニコしながら眺めている。彼は征二に向かって、

「ね、お兄ちゃん、面白いでしょ」
「……」

征二はいがみ合う二人の間に割って入ると、赤いライオンの描かれた紙を手に取った。

「こんなに上手なら、海を書けばいい。わざわざ禍々しいものを描くメリットは?」

征二の口調はどこか冷たい。浩子は一瞬だけ怯んだが、どうにか言い返した。

「海なんて陳腐なもの、描きたくない。かみさまが許さないでしょうし」
「いちいち許可を得て描いているのか。『不自由な創作』だな。こんなパラドックスも珍しい」
「工藤君。あなた、いつもそうだけど、偉そうに、やめてよね。かみさまに口出ししないで」
「……」
「そうよ。昔ちょっと勉強ができたからって、調子に乗らないで」

突如、浩子に加勢するアキ。彼女の理不尽な怒りの矛先は、今度は理不尽に征二に向けられた。アキはなおも息巻く。

「あんただって時々意味不明なこと言うじゃないの。どうせこんな場所にいるんだから、終わってんのよ! 何もかも!」

何もかも、終わっている。

…………違いない、かもしれない。少なくともこの箱庭では、許されることが多すぎる。許されないことも多すぎる。

――こんな場所、いらない。

「わかった。口出しして、悪かったよ」

征二はそう謝罪して、ライオンの絵を浩子に返した。

「……まぁ、別にいいんですけど」

浩子は気まずそうに言った。

「良くないわよ」

蒸し返したのはアキである。

「破棄して、その絵。今すぐよ。私の目の前で破って!」
「嫌。せっかく描いたんだから。かみさまに怒られる」
「気分悪い!」

アキはヒステリックにダン! とテーブルを叩くと、そのまま病室へ帰っていった。

「あー。こっちが気分を害するわ」

デイルームにいた誰かが、そう呟いた。


赤いライオン。一見すると不気味な絵だが、そこには浩子なりの祈りが込められているのだ。

秀典が楽しそうに駆け回る横で、浩子はライオンに優しく触れる。愛おしそうに見つめている。

「……方法は、いくらでもあったわ。でも」

浩子の目がきらきらと輝きだす。

「私には、これしか、ない」


看護師の高橋美和が、騒ぎを聞いてやってきたのは、征二が本から栞を取り出したころ、つまり騒ぎが治まってからである。

「どうか、しましたか」

美和の愚問めいた問いかけに、しかし征二は涼しい顔である。

「別に何も。すべて『いつも通り』ですよ」
「そうですか。ならいいですけど。あまり騒がしいので、何か起きたのかと」
「何も起きていないし、仮に何かが起きたって、ここでは何もなかったことになってしまうでしょう」
「え?」
「まるで真っ赤なライオンの放し飼いだ」
「ごめんなさい。また私、おっしゃる意味が――」
「理解など求めません。それは傲慢だし、あなたには不可能です」
「はぁ……」

美和はガッカリしてナースステーションに戻ることにした。今の会話、どうやって申し送ればいいだろう。そもそも、申し送ることはできるだろうか?


その日の夜、睡眠薬を求める列に並んでいた浩子は、相変わらずライオンの絵を気に入って片手に携えていた。そこへ、薬を飲むためのコップを持ったアキが無言で近づき、中身を浩子にぶちまけた。

髪やパジャマが濡れたことより、水彩で描かれたライオンの赤が無残に滲んでしまったことの方がよほどショックだったのだろう、浩子は文字通り硬直した。

「皆川さん、何やってるの!」

夜勤帯の看護師から叱責が飛ぶ。

「藤沢さん、大丈夫? 大丈夫? 返事して」
「あ、――――……あー……」

電池の切れた玩具のようだ。濡れた紙は水を吸ってふやけてしまった。当然、ライオンは原型を留めていない。

「皆川さん、藤沢さんに謝りなさい」

威圧的な看護師の口調にもめげず、してやったりという表情のアキである。

「ふん、天罰と思いな! キモい絵なんて描くからいけないのよ」
「皆川さん、落ち着きなさい」

びしょ濡れの浩子は、「あー」と呻きながら、ベラベラになった紙を大切そうに握っている。

赤いライオン、どっかに行っちゃった。

「だったら、また描けばいい」

凍り付く浩子の後ろで声がした。征二だ。

「絵具ならあるだろう。『赤』なら尚更だ」

征二の言葉の意味を、「描きたい」という欲求のまま光の速さで解いた浩子は、

「キャハハ!」

と、突然笑い出した。

「嫌ね、工藤君! 陳腐過ぎだわ!」

半ば叫ぶようにそう言って、大切にしていたはずの紙をびりびりと引き裂いた。

「天罰なら喜んで受けるわよ。かみさまからの贈り物だもの!」

紙片が床に散らばる。まるで浩子の精神状態を比喩しているかのようだ。

アキは看護師に取り抑えられてもなお、ジタバタ手足を動かしながら喚き散らしている。

「お前ら、何もわかってない! その絵は呪われてんだ! その女は悪魔だ!」

介抱されていた浩子が、ゆらりと立ち上がる。

「……藤沢さん、大丈夫なの」

看護師の問いかけに、しかし浩子は答えない。何かをぶつぶつと唱えるように言いだした。

「首吊り、リストカット、服毒、飛び降り、入水、感電、焼身、」
「藤沢さん?」

訝しげな表情の看護師を気にせず、浩子は紙片を一つ拾い上げながら、

「方法ならいくらでも、ある。でも決めたわ。今度は海を描く。あなたはそこで溺れるのよ」

アキは浩子の表情を見てゾッとした。浩子の瞳が、キラキラとして見えたからだ。

「――魔女!」

解放されたアキはそう言い捨てて、自分の病室に駆け戻っていった。

すでに睡眠薬を飲んだ秀典が、終始ニコニコして様子を眺めている。征二は秀典の頭にポン、と手を置いた。

「笑い事じゃない。茶化しちゃいけないよ。彼女らはいつだって本気なんだ」
「何が?」

秀典の両の目がくりっと征二を見る。

「見てごらん」

言われて秀典が征二の指さした先を見ると、アキの病室に看護師が数人入っていくのが見えた。

「お仕置きされるんだ、彼女は」

恐らく、もう一度暴れれば、数日は保護室行きだろう。今は看護師たちから「ありがたい」お説教の途中だろうか。秀典は「キャッ」と笑った。

「かわいそ~!」
「だから、笑うことじゃないって」

浩子が列からはみ出して、紙片を集めている。征二はそっと手を差し伸べ、その作業を手伝った。

また、描けばいい。

やり直しなんて、いくらでもきくんだ。

また、始めればいい。

終わりたければ、始めることだよ。


翌朝、朝食が済んでからいつものようにOT(作業療法)ルームに移動した患者たち。編み物、パズル、革細工、めいめいに興じているが、やがて部屋に倦怠が訪れる。

浩子は新しい白紙に相対していた。そこへ今から海を描こうとしているのだ。しかし、彼女の手に添えられたパレットには、赤色の絵の具が広がっている。

「藤沢さん、海を描くんじゃなかったの?」

作業療法士が首を傾げる。

「ええ」

浩子はどこまでも優しい笑顔を浮かべて

「あの子が溺れるのに相応しい海を描きます」


結局、あの後押し寄せる感情のままに暴れたアキは、保護室行きこそ免れたものの、デポ剤を打たれ、病室で安静にしているほかなかった。薬で無理やり沈静状態にさせられたのだ。

箱庭では、どんなことも許されるし、どんなことも許可されない。

「赤い海、ね。面白いとは思うけれど、それも『かみさま』の指示?」

征二が、やはりどこか冷たい口調で問う。浩子は首を横にぶんぶんと振った。

「いいえ、これは独断よ。かみさまに内緒ね」
「…………」

征二は、中原中也の詩集から目を離さずに告げる。

「一つだけ、教えようか」

浩子は夢中で絵の具を水で溶いている。聞いているのかよくわからない。

「そんなことをしても美しくないよ」

浩子の挙動が一瞬だけ止まる。しかし、すぐにその手は動き出し、真白の紙に赤色がべたっと塗られた。

「すぐに描きあげてみせるわ。あの子が溺れるための海は、いつだって赤いの」
「復讐心や当てつけなんかで創作したって、それはただの吐瀉物に過ぎない」

征二の警告を無視して、なおも筆を走らせる浩子。赤色が幾重にもなって、不気味な海の絵があっという間に完成に近づく。浩子は独り言のように、

「エデンから追い出された二人の齧った果実だってこの色だった。美しくないわけがない」

ぶつぶつ言いながら、次に深緑色を塗りつけた。

「海には、ライオンの目が浮いているの。ぷかぷかと。とっても綺麗」
「……表現の自由、か」

征二は軽くため息をつくと、詩集から目を離して珍しく浩子を見た。

「緑色の目は嫉妬の象徴だ。そのことを知っていたのかい?」

征二の人の本質を見抜くような視線にも、浩子は動じない。完全に自分の世界の住人だ。しばらく、鼻歌で「ムーンリバー」を歌いながらパレットをいじっていたが、唐突に征二へ問いかけた。

「正義と悪って、どうやって決まるか知ってる?」

征二はその問いに対し、静かに言葉を紡いだ。

「……美しいかどうか、とでも言いたいの」
「ヤダぁ、正解!  やっぱり工藤君もわかってるんじゃない」
「何が」
「この場所に美しいものなど、何一つないって」
「…………」


午後のまどろみに、誰もがあくびを隠せない中、征二は本ではなく絵筆を握っていた。鉛筆は鋭利なため、ここでは禁止されている。

異食防止のため、本来なら絵の具も禁止されることもあるが、看護師の立会いのもと、征二は絵を描いているのだ。

征二は気持ちのおもむくままに色彩を重ねてゆく。興味深そうに覗き込んでいるのは秀典だ。

「何を描いているの?」
「なんだと思う」
「えっとね、女の子」
「そう。この子にはね、ちゃんと名前があるんだ」
「ふーん」

A4サイズの紙に描かれていた女性。他でもない、彼に孤独を背負わせている張本人、つまり愛する人の姿であった。

「誓い合ったんだ、僕らは」

独り言のように征二は言う。五月のバラ。教会の鐘。作業療法の時間に作った革のリング。交わした、口づけ。

すべてが昨日のことのように思い出される。

思い出は美しい。いや、きっと美しいから思い出なのだろう。

彼と彼女を引き裂くとしたら、それはきっと彼の病気ではない。空だ。箱庭をいつも睨み付けている、この空に、二人は引き裂かれるのだ。

「きれいなひとだね」

秀典の言葉に、征二はゆっくりと頷いた。

「『その時』が来たら、もうこの箱庭は、要らない」

それはただの妄言か、それとも何らかの予言なのだろうか。

第五話 手紙 へつづく