病棟が、燃えた?
翌日の朝、その一報を電話で受けたとき、俊一は横目で、朝風呂上りにソフトクリームを食べている征二を見やった。
……どう伝えたら、いい?
俊一が逡巡していると、ふと、征二が言った。
「俺、こんなうまいソフトクリーム初めて食べた」
「そう、か? 小さい頃はしょっちゅう食ってたろ」
「うん。でも、格別。ここで食べるのは」
「そっか……」
征二は俊一の様子を察したらしく、首を傾げて、
「……何か、あったの?」
ストレートな質問をぶつけられ、俊一はぎくりとする。
「いや、その、なんだ。学校からお𠮟りを受けてだな」
「噓でしょ」
「何でだよ!」
征二は落ち着いた表情で答えた。
「兄さん、嘘つくときには、いつも左足で地面をトントンするから」
「……」
俊一はため息をついた。
「お前に、隠し事はできないな」
「何があったの」
ここで誤魔化しても意味がない。そう感じた俊一は、意を決し、征二に真実を伝えた。
「お前のいう、『箱庭』が全焼した。放火らしい」
……しばし、征二はソフトクリームを食べ続けていた。食べ終わると、前を向いたまま、 身動きしなかった。
「征二……」
俊一は心配になって弟に声をかける。
「ショックかもしれないが、事実なんだ」
やがて、征二は立ち上がると口笛でムーンリバーを吹き出した。その様子に俊一は、
「どうか落ち着いてくれ。俺も驚いてるけど」
一小節を吹き終えた征二は振り返って、唐突に、
「運命って、兄さん信じる?」
そんなことを問うてきた。
「俺はね、そこそこ信じてる。今、思ったよ。箱庭が焼け落ちたのは、ああ、運命なのかもしれないなって思ったし」
「征二……」
俺を閉じ込めた、そして俺が見守ってきた、箱庭。
そう、もし終わりが来るとしたら、灰になるのが一番良いと思ってきた。
それが思いもよらない形で実現した。
「それだけのことだよ」
「……死人が、出たらしい」
「そう」
征二の口調は冷たい。まるですべてをわかっていたかのように。俊一は、ためらいがちに、取り繕うように続ける。
「どうせ飛び出したんだ、場所がなくなってちょうどいいじゃないか」
征二はニヤッと笑みを浮かべた。
「『ちょうどいい』か。確かにね」
そうして、クスクスと笑い出す。
「どんなに大切に守っても、殺したいほど憎んでも、失う時は一瞬だね」
「……」
「兄さん、ありがとう。俺、やっと目が覚めたよ」
「征二?」
「俺は俺のすべきことをするだけだ」
ただならぬ征二の雰囲気に、俊一は気圧された。
びっくりしたよ。君から手紙が届くなんて。相変わらずクセ字だね。
いきなりイタリアに行っちゃってごめんね。でも、私、ちゃんと見てきたよ。
Triesteは小さな田舎町でした。Mattoたちが当たり前に地域で暮らしてるんだ。
Mattoってね、征二のこと。知らないでしょう?
まだガラケーなのかな。ラインは使えないのかな。
正直、振られちゃったと思ってたよ。せっかく君の外泊の日程に合わせてフライト決めたのに。泣きながら飛行機に乗ってた。向こうについた時には目が腫れあがってたよ。いてもいなくても私を泣かせるんだから、君は本当に罪な奴だなぁ。
あの場所で、きっと、待っているからね。
カトリック高円寺教会。かつて二人が永遠の愛を誓い合った場所。佐々木ユイは、礼拝堂の一番手前に佇んでいた。ステンドグラスで描かれた天使が優しく見下ろしている。
かつて、征二の心を蝕んだ、天使。
彼はどんな風景を見ていたのだろう。あの雨の日、ユイの前で確かに世界から踏み外した、征二。それでも懸命に生きようと、襲い来る妄想と闘いながら生きてきた、征二。ユイの欲しいものは何でも知っている、征二。どれもみんな彼で、だからユイは彼の全てを受け止めようと決意していた。
第一総合病院の精神科病棟が全焼したというニュースは、翌日の朝のワンコーナーで少しだけ取り上げられた程度だった。ユイもそのことを知っていて、心配はしたが、直感で彼は無事だと悟った。
――あんなところで、くたばるような人じゃない。
あの日、生まれて初めて愛する人を否定してしまった日、ユイの心の奥には深い後悔が穿たれた。
どうして、ありのままに彼を愛せなかった?
問いかけは自己糾弾になって、彼女をひどく追い詰めた。しかし、思い悩むだけではダメで、動かずにいられないのが彼女の本分だ。だから、彼女は実際に行動に出た。
精神科病院で症状が落ち着いているにもかかわらず、退院できない状態を「社会的入院」という。そんな基本的な単語もユイは知らなかったが、それゆえに必死になって学んだ。やがて、学んでいるうちに気付いたことがあった。
このまま、色々を知っても、彼をあそこからは救えない。自分の後悔を払拭するためじゃなくて、彼のために学びたい。
イタリアは、バザーリア法という法律によって何十年も前に精神科病院が解体されたという。イタリアにできて、どうして日本で実践できないのか。それがもどかしかった。
知れば知るほど、知らなければ良かったと思うことが多すぎて、それでもユイは学ぶことをやめなかった。ついに、イタリアへの留学まで決めたのである。
この目で、耳で、肌で感じないと、きっとわからないから。
そうしてしばしの別れを彼に告げたはずのユイは、しかし彼からの応答が無かったことで、気持ちが折れそうになった。だが、ここで諦めたらそれこそ本当に利己的な理由で学びに行くようなものだ。彼を想いながら、飛行機の中で大泣きしながら、イタリアへ飛んだ。
どこかで、わかってはいた。精神科病棟という通信面会が制限された空間(病棟から出す場合でさえ、中身を検閲される場合がある)で暮らす彼には、もしかしたら伝わらなかったのかもしれないと。むしろそうであってほしいと思った。
彼は、私のことを捨ててはいないと。
ユイの予感は的中した。やはり、差し出した手紙は彼に届いていなかったのだ。
―――よかった。
率直に、そう思った。彼はまだ、私のことを想ってくれていると確信した。
……冬が近いのだろう。外はで風が吹いていて、枯葉のカサカサと歌う音が聞こえる。ユイは目を閉じて、両の手を組んだ。
神様。私はもう逃げません。彼がたとえどんな世界を見ていたとしても、私はそれを否定したりしません。否定とは、人の心をひどく傷つけるものだからです。私はもう、決して、彼を否定しないことを誓います。
――背後で軋む音がして、ゆっくりと扉が開いた。
彼女にはわかっていた。だから、あえて振り向かなかった。
足音が近づいてくる。一体、どんな顔をしているのだろう? またあの時のように、文学青年は中原中也やランボーの詩でも朗読してくるだろうか。
悪くない。いや、むしろそれがいい。久々に、彼の世界に触れたい。
「征二……」
気づくと、名前を呼んでいた。だが、
「お嬢さん。こんなところで何をしているんですか」
応じたのは、年老いた白髪の紳士だった。
「え……」
虚を突かれた。一体、誰だろう。
「日曜日でもないのに礼拝とは、敬虔だね」
「あなたは……」
「ただの暇を持て余した老いぼれです」
「……」
老紳士は、ユイの顔をまっすぐに見た。
「お嬢さん、綺麗な目をしているね」
「えっ?」
老紳士はハハハ、と快活に笑った。
「妙な意味じゃないよ。僕はね、もう長いこと生きてきたから、わかるんです。目の清濁で、その人がどんな人なのか」
「……」
「いやぁ、僕は毎日暇で、ここの教会には時々来ているんです。よかったら、聞かせてもらえませんか」
ユイは少戸惑った様子である。
「何を、ですか」
「君の『物語』を」
老紳士は、小春日和の陽光のような微笑みを浮かべた。
第九話 教会 へつづく