ものの見事に、私がそこに暮らしていた痕跡は消されていた。あんまり小まめに掃除なんてできていなかったのに、アパートのフローリングはわざとらしいほどにピカピカだった。
脚が黒猫の足みたいなデザインのローテーブルも、百円均一で揃えたキッチン用品も、端が破れたランチョンマットも、リサイクルショップでまとめ買いした白物家電も、資源ごみの日に出せなかったHANAKOのバックナンバーが突っ込まれていたマガジンラックも、なにもなくなっていた。
見ないほうがいいことや知らないほうがいいこと、世の中そんなもんばっかだ。涙なんて出なかった。しゃっくりみたいな笑い声が、一度漏れただけだった。
履歴でバレるからPASMOは使うな、という先輩脱走犯のアドバイスに従い、私は券売機にパラパラと小銭を入れた。化粧なんてできる気力はなかったし、後ろでまとめた茶髪もアホ毛だらけ。デイルームで過ごすときに着るスウェットに安物のパーカーを羽織り、履き潰されたノーブランドのスニーカーといういで立ちのせいか、電車の窓に映る自分がいつも以上にくたびれて見えた。
入院した際に、アパートの鍵は親に没収された。いま私の手元にあるのは、元カレに渡していた合鍵だ。これは友人A美を経由して私のもとに返却された。A美は私が入院して二週間後、面会の許可が出てすぐに来てくれた。
「あのね、Bくんから、これ」
ところどころ着色の剥げたミッキーのキーホルダーごと私のもとに返された鍵は、面会室の蛍光灯の光を反射して、私をえぐるナイフのように見えた。
次の週に面会に来たのはA美に加えて、同じサークルのC子とD香だった。嫌々参加している作業療法のあとでくたくたな私とは対照的に、C子とD香は流行りのファッションに身を包んでいる。精神科の病棟になんて初めて来たのだろう、わーきゃー言いながら面会室を見渡している。
面会室の一隅に、患者たちが作った折り紙の花や絵手紙、塗り絵などが飾られていて、C子が興味深い様子を見せた。
「すごーい。みんな上手なのね。心琴ちゃんのはどれ?」
「あ……。いや、私は、その。薬の副作用で、手が震えちゃうから、だから……」
C子はやべっ、という表情をすぐに取り繕い、「そうだ、聞いてよ。D香、◯◯省の内々定取ったんだって!」と話題をD香に振った。D香は「偶然だよー」謙遜を装いつつも、得意気な気持ちを隠せないようだった。
それからは、私など置き去りにしてC子とD香が、主に最近の大学内のゴシップについてしゃべり立てて面会時間が過ぎていった。A美が疲れ切った私を見て困った様子だったので、私はテーブルに設置されていたナースコールを、賑やかな二人にバレないようにそっと押下した。
日勤の看護師がやってきて、「どうしました?」と声をかけきて、ようやくおしゃべりがやんだところで、私はA美に目配せした。
「看護師さんすみません。笹塚さん、ちょっと疲れてるみたいなんです」
「あら、せっかくお友達が来てくれたのにね。もう休みたい?」
「……はい。ごめんなさい」
なんだったんだろう。嵐のようにやってきて、荒らすだけ荒らして去っていく。鍵の掛けられる鉄扉の手前でA美だけが振り返り、口を「ごめんね」と動かした、ような気がした。
風の噂なんて、知りたくもないことしか運んでこないんだよな。それから数週間後に聞こえてきた、A美がBと付き合っているという「噂」だって、もう私にとってはどうでもいいことなんだ。
外出許可が出る時間帯に、病院から歩いて行ける図書館へ行くようになった。区民ではないので貸出カードは作れない。だから、図書館の中で読むしかなかったのだけれど、それでも好きな本を読めるのが嬉しかった。雑誌類も充実しているので、ファッション誌やキネマ旬報、音楽雑誌などを館内の机に持ち込み、門限ギリギリまで読み耽った。
ある日、猫の特集が組まれた写真誌に夢中なあまり、外出許可時間を過ぎてしまったことがあった。慌てて図書館を出て戻る道を速足で進んでいると、交差点の横断歩道を渡り切ったあたりで、周囲を見渡している男性を見かけた。
整えられた短髪に細縁の眼鏡、パステルブルーのポロシャツにベージュのチノパン。こざっぱりした印象のその男性は、持っていたビジネスバッグから地図を取り出し、それをぐるぐる回したりしながら、しきりに首を傾げている。
私がそのすぐ横を通り抜けようとしたとき、その男性から声をかけられた。
「すみません。△△病院はどこか、ご存知ですか」
「あ……。はい。ていうか、今から私、そこに戻ります」
「そうですか、ああよかった。ここからどれくらいかかります?」
「徒歩10分、くらいだと思います」
「じゃあ、走れば5分ですね」
「えっ?」
なにがどうしてこうなった。考える余裕もなく、私は走った。体力が下がっていたせいか信じられないくらいスピードは出なかったけど、全力で走ったのなんていつぶりだろう。病棟入口に着く頃には肩で息をする体たらくだったけれど、不思議と疲労感は薄かった。
とはいえ、門限を破ってしまったのである。ああ、叱られる。ダメな患者の問題行動として記録されて、退院不可の理由にされてしまう。
私が病棟に入るのをためらっていると、男性が不思議そうな表情でこちらを見ていた。あんなに走ったのに、男性の息はほとんど上がっていなかった。
「入らないんですか?」
「えっと、ええ、入ります、はい」
私がもたもたしていると、病棟の内側から扉が開いた。現れたのは、私が苦手なタイプの看護師だった。問答無用で患者を下に見て、相手の話をまともに聞くこともせず、決めつけに基づいて恫喝するような。
私は怖気づいてその場に棒立ちになっていた。だが、その看護師はこちらに一瞥もくれずに、男性に恭しく頭を下げたのだった。
「お待ちしておりました」
「ギリギリの到着ですみません。どうぞよろしくお願いします」
私はぽかん、とその光景を見ていた。挨拶を済ませた看護師が私に視線を刺してきたものだから、私は思わず目をつぶった。すると、男性がその看護師に対して、どこか念を押すように言った。
「こちらの方に道案内をしていただきました。僕が道に迷ったせいで、余計な時間を取らせてしまったんです。すみませんでした。とても助かりました。どうもありがとう」
その一言が効いたらしく、この日の門限破りはお咎めなしとなった。あの人、誰だったんだろう? 夕飯に出された小松菜のおひたしを白米にのせて食べる。ふりかけは結局、のりたまの安定感に限る。仕方ないけれど、汁物はいつも温い。熱々のスープをはふはふしながら食べるなんて、そんな贅沢はもうできないんだろうな。
脳裏に、がらんとしたアパートの光景が蘇り、しゃっくりみたいな笑いが込み上げたせいで、汁物に咽せてしまう。隣で食事していた年上の女性患者が、「大丈夫?」と背中をさすってくれた。私が咳き込みながら「大丈夫、じゃないかも」とこぼすと、「そっかー」と受け流してくれた。
その後、あの男性を時折院内で見かけるようになった。いつもクリップボードを携帯していて、患者が昼間を過ごすデイルームに顔を出したかと思えば、一緒に茶菓子をつまんで談笑したり、野球中継を観ながら患者たちに混じってヤジを飛ばしたりしている。
ある時、私が声をかけられることがあった。作業療法をボイコットして、デイルームで法学のテキストを適当にめくっていたときのことだった。
「それ、面白いですか?」
私は力なく首を横に振った。
「全然。内容なんて入ってこないです」
「売店に漫画雑誌たくさん置いてありますけど、そういうのって読まないですか」
「週刊誌を毎号買うお金なんて、ないから。あと図書館に行けば、それなりにいろいろ読めるし」
「うーん! 確かに、ここにずっといるとそうなりますよね」
「はぁ」
「僕、地元の友人の店を間借りして、週に一度カフェをやってるんです」
「はぁ」
「もともとがブックカフェなんで、色んな本があって……古本なんですけど、だからこそ思わぬ掘り出し物との出会いがあったりするんですよ」
「はぁ」
「こちら、その店のネームカードです。よかったら、いつか」
いつか。その「いつか」は、たぶん来ない。
私はネームカードを法学テキストへ栞のように挟んだ。
「どうして白衣を着ないんですか」
ずっと気になっていたことだ。もちろん唐突かつ不躾な私の質問にも、この人が動じることはなかった。
「あまり好きじゃないんです。なんか『有明ありあけ感』があって」
その返答に、私は思わず噴き出した。
「コスプレみたいって意味ですか?」
さらに神妙に首肯するものだから、私は「けっこう似合うと思いますけど」と軽口を叩いた。すると、
「アクセサリーに頼っていたら、やがてアクセサリーしか見えなくなるでしょう。僕は、それが怖いんです」
真剣に返されてしまった。
同じ日の夕方、親がアパートを解約したとの連絡が病棟のソーシャルワーカーづてに私のもとに入ってきた。
別に、大丈夫です。だって仕方ないじゃないですか。もう私の居た形跡なんてどこにも残ってなかったし。気にしてなんていません。病気になってなった私が悪いんです。バイトにも行けなくなって、家賃だって滞納してたわけで……。ええ。仕方ないんです。そうでしょう?
私が食事も入浴も拒否し始めても、なぜか保護室へ入れられたり身体を縛られることはなかった。ベッドの上で日がな一日、ぼーっと天井を眺めて過ごした。同室の先輩患者たちが、努めて明るくあいさつしてくれたり、レクリエーションで余ったアルフォートを差し入れてくれたりしたことで、私はどうにか現実に留まっていられたように思う。刺さったままの点滴の管は、しゃっくりのような笑いを漏らすたび、頼りなげに揺れた。
なにもなかった。帰る場所も、帰りたい気持ちも、もう、なんにも。
数日後、ようやく食事を口にできた私は、あの人を見かけなくなったことに気づいた。病棟には、パリッとした白衣にスーツ姿の壮年男性が出入りするようになっていた。そのおっさんは終始威圧的な雰囲気をまとい、私たちを監視するようにデイルームを巡回し、常に眉間にシワを寄せていた。茶菓子の「雪の宿」を患者と取り合うこともなければ、プロ野球のデーゲーム中継を一緒に観るなんてこともなかった。
風の噂で、あの人はどうやら上司にあたる医師に楯突いたことが原因で、病院を辞めさせられたと聞いた。
私と年齢の近い看護師が、「ここだけの話なんだけどね」と、あの人の退職の顛末を、朝のバイタル確認時にこっそり話してきた。
「笹塚さんが拒薬と拒食状態になったとき、隔離が必要だと誰もが思った。だってそうするのが普通だから。でも、あの人が猛反対したのね。『必要なのはそんなことじゃない』って……」
やっぱり、あなたには白衣なんて似合わないと思います。ポロシャツ姿でお菓子をつまんで雑談したり、中日が負けると落ち込んだり、小さなカフェで古本とコーヒーに囲まれているほうが、ずっといいと思います。
ちくしょう、なんて言葉で毒づいたりしたら、叱られるだろうか。……叱って、くれるだろうか。
[終]