第十章 沈黙の詩

「宝飯玲子は、ここにいるわ」
ミズはそう断言して篠畑を見据えた。篠畑は言葉を途切れさせたきり、その場に立ち尽くしている。ミズはしてやったりとばかりにニヤリと笑った。
彼女の狙いはただの腹いせだ。こんな舞台で踊らされたことで安売りされた自分のプライドが許せなかったのだ(しかしそんなものは、その辺の勝ち組連中が夢中のマネーゲームよりも余程つまらないものだとも認識している
彼女であるが)。
「ドクター、どうかしたのかしら?」
我ながら、意地の悪い質問だとミズは自嘲した。戸惑いこそ見せないものの、篠畑の目から余裕の色が消える。
「なぜ……?」
少女の消え入りそうな歌声が篠畑を捕えて離さない。
「なぜあの日、あなたはあそこにいなかったの?」

世界に憎まれ、拒否され、果てていく者がいる。繰り返される生命の営みから外れその輪を遠くから見ているだけの者がいる。羨望と失望と絶望に苛まれて歪んでいく正義が在る。しかし、そんな彼らを『不幸』だと決めつけることは、ただの傲慢と欺瞞であると、他でもない篠畑は言う。しかし篠畑は、そう自分に言わしめるこんな世界を『愛しい』と感じている。果てなく憎んでも憎み切れないのなら、いっそのこと愛そうじゃないか。彼は『あの日』からそう決めている。いや、その様に変容した自分こそが本来の自分の姿だと教えてくれた『あの子』に、お礼が言いたくてしょうがない。彼は、疾うに世界の歯車から外れてしまっているのだから。

篠畑は今、自分の両目に映っている目の前の少女の紡ぐ詩にじっと聴き入っている。
「なぜあの日、あなたはあそこにいなかったの?」
半音ずつ下がっていく、いびつなメロディ。
篠畑の中で少女の声が滲み、広がり、歪んでいく。その旋律は、あの日に彼の目の前で散った、緋色の徒花のように、彼を彼たらしめていく。