「これは……」
真弓の問いに、中野は意を決して答えた。
「僕の祖母だよ。『秋子』さんだ」
そう答えた。真弓は驚きを隠せなかった。
「私に、そっくり……」
「だからたよ」
「え?」
中野は、もがく彰の方を直視する。
「君を雇った理由」
「……?」
彰はいよいよ、その存在確率を低下させて、影に飲まれようとしている。涼介は、懸命に名前を呼び続けていた。
「彰、今、助けるからな。彰」
「あ、あ、あ、あ、」
彰は苦悶の表情を浮かべている。涼介はタンバリンをカバンから取り出すと、シャンシャンとリズムよく鳴らし始めた。まるで何かの儀式だ。苦しむ彰を、涼介が楽器を演奏しながら見守っている。中野は、
「俺も手伝う」
そう言って、カフェスペースに飾ってあるウッドベースを取り出すと、演奏を始めた。
真弓は戸惑うばかりだ。しかし、一定の効果はあるようで、消えかかっていた彰の姿が、少し安定して見える。足下の影も薄れているように感じられた。
しかし、彰の表情は相変わらず厳しく、
「秋子……お前が……!」
唐突に真弓に向かって手を伸ばした。真弓は思わず、
「わ、私は、違います」
そう言って後ずさりした。ところが、そのあまりにも似ている「面影」が、今の状態の彰に混乱を招くのは必至だった。
中野と涼介が必死に演奏を続ける。このメロディーは、真弓の耳にもよく馴染んでいた。
「『アリスの栞』……!」
真弓はハルコから教えてもらった曲名を口走っていた。どこか物悲しいメロディーライン。
Even if the wind blows, the tears will not disappear.
Life is limited, so it makes sense.
Thank you for loving me.
Thank you for loving the world.
If I exhale from the thin lungs, you will smile.
英語の苦手な真弓にも、これらのフレーズは記憶できた。「風が吹いても涙は消えない。命には限りがあるから、意味がある。愛してくれてありがとう。世界を愛してくれてありがとう。痩せた肺から息を吐けば、きっとあなたは笑うでしょう」。
「Even if the wind blows, the tears will not disappear……」
中野と涼介の演奏に合わせて、気づいたら真弓は口ずさんでいた。
「……!」
その歌声に、誰よりも反応したのは、他でもない彰である。
「――あ、あ……」
彰は髪の毛を掻き乱しながら、しかし耳を傾け始めたのだ。中野と涼介は目を合わせて頷いた。ここで彰の苦しみにとどめを刺したのは、そこに重なってきたギターの音色だった。
「ハルコ!」
涼介が階段の方へ声をかけた。ハルコはニコッと笑った。
「遅くなってゴメンね。あたしがいないと始まらないでしょ?」
「ハルコさん!」
「真弓ちゃん、なかなかいい歌声じゃん。さ、いくよ!」
ハルコがAm7コードを押さえて、再び『アリスの栞』の前奏から始まる。真弓は深呼吸した。
Even if the wind blows, the tears will not disappear.
Life is limited, so it makes sense.
Thank you for loving me.
Thank you for loving the world.
If I exhale from the thin lungs, you will smile.Sorrow is fruit. You can not get it even if you harvest it.
Pleasure is the wind. Because it is important to feel.
I am waiting, when you smile again.
「book marker」のメンバー全員と真弓が、『アリスの栞』を演奏する。物悲しくも優しい旋律が、彰の心をひどく揺さぶった。
「う……、あ……」
徐々に自意識を回復していく彰。影が揺らぎ、消えてゆく。真弓は渾身の歌声で、
「I am waiting while singing!」
拙い発音ながら、そう歌った。
「秋子……!」
彰の目から、涙がこぼれる。演奏はクライマックスにさしかかり、彰の姿が明らかにハッキリとしてきた。真弓は『アリスの栞』の日本語パートを歌い出す。
「私は待っているわ。あなたからもらったあの分厚い本に、思い出という栞を挟んで」
外では静かに夜風が吹き始めた。新緑を柔らかく揺らしている。
「たまには歩を止めなさい。あなたが歩き続きたいのならば」
アコースティックバンドの奇跡のようなセッションは、彰の苦しみの終わりとともに静かに終わった。
第十六話 うにーっ に続く