第十三話 過日の嘘(六)声

カビはカビを生む。ホコリはホコリを呼ぶ。けれど、あなたはその原理に抗って、よく今日まで生きてきた。群れることなく日和ることなく、媚びることなく臆することなく、屈することなく生きてきた。だから私はもう、…

第十二話 過日の嘘(五)カード

美奈子がいなくなったことに混乱した裕明が「白い部屋」を飛び出し、そのまま院内のあちこちを彷徨っていたのと時を同じくして、入院棟の夜勤を担当していた看護師たちがある異変に気づいていた。夕飯を配膳しようと…

第十一話 過日の嘘(四)定規

岸本の気持ちを落ち着かせようと、木内は「深呼吸を」と彼女に促した。 「裕明に特段、おかしな様子はなかった?」 「野暮なこと言うのね」 「え?」 「『おかしい』って、まるでどこかに『おかしくない』って定…

第三章 さようならだけはいわないで

冷たい廊下にカツン、と高音が響く。狭い空間によく映える鋭い音。それがテンポよく聞こえてくる。彼は読んでいた本から目を離し、来客を待った。カツカツという靴音は、彼の部屋の前で止まる。 一呼吸置いてから、…

第十話 過日の嘘(三)怖い

「知らない場所って?」 知らない。知らないから、知らない。 「何が見えたの?」 海。それがひたすら目の前に広がっているんだ。僕はあの子の手をとって、その子も僕の手を握り返して、でも見つめあうわけじゃな…

第九話 過日の嘘(二)りんどう

何をもって何を「不幸」だとか「悲劇」などと「誰が」決めるのだろう。ある「ものさし」で測ろうとすれば、今、美奈子の目の前に広がっている光景は「異様」とされるのかもしれない。だが、木内にシャンプーを施され…

第二章 洗脳の方法

ミズ・解剖医が気だるげに白衣を着替えながら話しかけるのは、一人の迷える仔羊だ。 「つまりは肯定されたいわけね、あなたは。肯定には色々オマケがついてくるから。いい点数、高いお給料、羨望の眼差し。でも誰か…

第一章  幻想即興曲

篠畑礼次郎はスープを掬う手を止めた。しばし微動だにしなかったのだが、たった今受けた報告をもう十分に咀嚼したのか、一人で頷くと 「資料はありますか」 そう若宮郁子に訊ねた。若宮は青ざめた顔色を戻せないま…

プロローグ(意味のない幕開け)

これは、紅茶がさめるまでに語られる、「本当の彼」が「彼女」と結ばれるまでの暇潰しにもならない物語。 【悪夢の演出家より挨拶】 最初に告げておきましょう。僕は一介の演出家に過ぎません。この白い箱には約束…

trèmolo

どうしても僕のものにならないのなら、壊してしまったほうがいいと考えていた時期もありました。そんな拙いことを、本気で。 桜色の袴が似合う人でした。卒業式の学長のスピーチなんてまったく頭に入ってこなくて、…