第十九話 慈愛の罠(五)許し

都心で耳にする蝉の声よりも、この奥多摩の森林から注ぐそれらは柔らかく美奈子の耳に沁み入った。アブラゼミ、ミンミンゼミにまじってこの頃ではクマゼミがこの辺りにまで生息域を拡げているらしい。独特のわら半紙…

第五章 その面影

「――、おはよう」 彼女の記憶から唯一欠けているものがあったとしたら、それはきっと彼が呼ぶ彼女の名前だ。 名前そのものを忘れたわけではない。あの人が彼女の名を呼ぶその声が、どうしても思い出せないのだ。…

遠燕

訳知り顔の自称友人たちが 同じアイスドリンク片手に 今日も群れなしてニコニコ みんな笑顔で良かったです その感情は転送でもされているのかな 一様に笑顔で楽しそうなものですから とうの昔にシステムエラー…

第四章 その手から零れ落ちる羽

【某年某月 獄中での手記】 いつから、僕は自分の影に囚われ、自分の翳に飲まれたのだろう。それとも、これが僕の本当の姿だったのだろうか? だとしたら、きっと僕は幸せだったんだろう。 彼女が教えてくれたの…

第一話 ラナンキュラス

東京にも綺麗な星空が見える場所があってね。つけられた地名をそのまま使うのは野暮だから、僕は「星見ヶ丘」って呼んでる。子どもっぽい?  確かに、そうかもね。 もう一度見せてあげたい、星見ヶ丘の夜空を。あ…

第十七話 慈愛の罠(三)願い

ひとしきり話を終えた裕明は、昂ぶった呼吸を整えるために、長めにため息をついた。 「そういうことなんです」 力なく笑ってみせる裕明に対し、美奈子はあっけらかんと右手を、再度高く上げた。 「はーい、先生!…

第十八話 慈愛の罠(四)風

それは確かに、二人にとっては優しい時間だった。不自由と抑圧を絵に描いたような場所ではあったが、それでも二人は、その空気に抗するごとく、不器用ながらも真剣に心を育てあった。 少女——雪は、ちらりと目が合…

第十六話 慈愛の罠(二)邂逅

事件の一報を児童養護施設の職員から知らされた裕明はうつむいて、その職員に気づかれないよう、「やっぱり」とこぼした。宿直の男性職員は、裕明に深呼吸を勧めた。 「まず、落ち着くんだ。今回のことは、いずれ知…

第十五話 慈愛の罠(一)人殺し

木内が美奈子を待合ロビーへ招き入れ、あおいがウォーターサーバーの水を汲んだ紙コップを手渡すと、美奈子はそれを一気飲みした。開口一番、 「話をさせてください」 という美奈子の鬼気迫る雰囲気に一瞬だけ圧倒…

第十四話 過日の嘘(七)邪魔者

木内の口から「情報提供」として若宮に共有されたのは、高畑美奈子の家庭環境についてであった。 彼女の父親は大手の商社に勤めるサラリーマンであったが、長引く不況ゆえリストラの対象となり、マイホームのローン…