第二十話 慈愛の罠(六)詩歌

美奈子は裕明の過去について何も知らない。知らないからこそ、わかることがある。それは、自分のことを「雪」と呼ぶ時の彼が、瞳に深い悲しみを湛えていることだ。 彼は美奈子に「雪」と呼びかけたのち、窓辺に腰掛…

第十九話 慈愛の罠(五)許し

都心で耳にする蝉の声よりも、この奥多摩の森林から注ぐそれらは柔らかく美奈子の耳に沁み入った。アブラゼミ、ミンミンゼミにまじってこの頃ではクマゼミがこの辺りにまで生息域を拡げているらしい。独特のわら半紙…

第六章 正義の定義

正義(名)セイ・ギ 【器物損壊容疑の取り調べ時に録音された『彼』の肉声】 「僕は、正義だ。ただひたすらに、自分の正義を貫くだけだ。僕は正義の刑事で、あいつは裁かれるべき殺人犯だった。僕は悪くない。僕が…

第五章 ミスがミズになる日

「――、おはよう」 彼女の記憶から唯一欠けているものがあったとしたら、それはきっと彼が呼ぶ彼女の名前だ。 名前そのものを忘れたわけではない。あの人が彼女の名を呼ぶその声が、どうしても思い出せないのだ。…

第四章 その手から零れ落ちる羽

【某年某月 獄中での手記】 いつから、僕は自分の影に囚われ、自分の翳に飲まれたのだろう。それとも、これが僕の本当の姿だったのだろうか? だとしたら、きっと僕は幸せだったんだろう。 彼女が教えてくれたの…

第一話 ラナンキュラス

東京にも綺麗な星空が見える場所があってね。誰かにつけられた地名をそのまま使うのは野暮だから、僕は「星見ヶ丘」って呼んでる。 ちょっと厨二っぽいかな?  確かに、そうかもね。 もう一度、見せてあげたい、…

第二話 シュークリーム

「おかえりー」 佳恵がセンターに戻ると、北野が茶菓子を用意して待っていた。 「どうだった?」 ざっぱくな北野の問いに、しかし佳恵は「はー」とため息をつくばかりだ。 「ダメだったの?」 北野が畳み掛ける…

第四話 潜入

秋が一歩ずつ前進して、空気が澄み始める。この季節の風物詩といえば文化祭だ。駒春日病院も例外ではなく、『春日祭』なる催しが開かれることを知ったのは、最初は病院のロビーのポスターだった。 精神科病院が、文…

第六話 脱出

佳恵の中には、企みという名の衝動が渦巻いていた。それは、懐かしい日々を急速にたぐり寄せた時に発せられる「もや」のように彼女を包み始めた。 自分の目の前に、犬伏裕司がいる。もはや見間違いようがない、現実…

第七話 すただす

「そんな恰好じゃ、ちょっと困りますよね」 ふと、タクシーの中で佳恵が言った。 「え?」 『そんな恰好』とは、保護室処遇のためのスウェットのことだろう。先刻までそこにいたのだから無理もない。 「駅前にシ…