エピローグ しあわせのかたち
翌朝、美奈子が目を覚ますとリビングの方から香ばしい匂いがした。これは間違いなく淹れたてのマンデリンだ。 寝ぼけ眼をこすると、まぶたが腫れぼったくなっていた。昨日、さんざん泣いたせいだろう。 「美奈子、おはよう」 リビング…
翌朝、美奈子が目を覚ますとリビングの方から香ばしい匂いがした。これは間違いなく淹れたてのマンデリンだ。 寝ぼけ眼をこすると、まぶたが腫れぼったくなっていた。昨日、さんざん泣いたせいだろう。 「美奈子、おはよう」 リビング…
(一) デイケアで木内がアコースティックギターを披露し、参加者から気持ちばかりの拍手をもらっていたところへ、電話の子機を携えた岸井が神妙な面持ちでデイケアルームに入ってきた。 「どうしたの?」 「皐月ちゃんから、あの子の…
(一) 解離性同一性障害の状態像は、その奇異さばかりが取り沙汰されがちである。他の医師や看護師らは、少年の――彼が殺害された江口医師の息子という点を抜きにしても――担当を受けもつのをひどく敬遠した。 彼はいつもひとりで個…
(一) 奥多摩の朝は空気が非常にしんと澄んでいる。岸井の手作りパンケーキに舌鼓を打ち朝食を済ませた二人は、クリニックの周辺を散策していた。 「たまにはいいね、こういうのも」 美奈子は嬉しそうに裕明の腕に自分の腕をからませ…
(一) 裕明が佐久間に体を明け渡してから、一晩が過ぎた。佐久間は相変わらず美奈子のことを「雪」と呼び、慈しむようにたくさんの愛情を注いでくれる。 佐久間は朝早くラッシュの中央線に乗って立川へと出かけた。美奈子は京王線に乗…
(一) 梅雨明けしたある日の夕方、二人の家に来客があった。くたびれたワイシャツにノーネクタイ、チノパンといういでたちの五十歳過ぎの男性だった。 ドアを開けると、男性は恭しくお辞儀した。 「この度は、ご協力まことにありがと…
(一) あまりにも平和な日々が続くので、西郷直樹の喉は非常に渇いていた。平和、平和、平和。なんだろう。なぜ、この言葉にこんなにも吐き気を覚えるのだろう。通りすがりのやかましい女子高生の群れに、ほのかな殺意すら覚えてしまう…
蝉時雨と読経の声だけが小さな部屋に響いている。泣く者はいない。たった二人の参列者の葬式で彼女の母親は、僧侶の読経中ずっとうつむいていた。それを責めるかのように、蝉たちの喚き声がしていた。 やがて読経が終わると、坊主は軽く…
彼はリビングで丁寧な手つきでマフラーを編んでいる。毛糸と毛糸とを編み針で絡ませながら、私に明日の出来事を語ってくれる。にこりと微笑んだ彼の、「あした、ばいばいだね」 などといってみせるその姿は、決して狂人の物まねではない…
「征二……!」 ユイは、思わず口走った。祭壇前から入口まで駆け寄って、「征二、征二、征二っ」と、愛しい名前を何度も呼んだ。征二もまた、不器用な笑顔を浮かべた。 「おかえり、ユイ」 「ただいま……!」 ユイが花の咲くように…